女房学校『女房学校』(仏語原題: L'école des femmes )は、モリエールの戯曲。1662年発表。パレ・ロワイヤルにて同年12月26日初演。 登場人物
あらすじ舞台は町の広場から始まる。アルノルフは日ごろから、市井の夫婦たちを諷刺しては楽しんでいた。亭主はせっせと金をため、その金を女房は男に貢ぐ。彼にとってはどちらも笑いの種でしかなく、女房にするなら賢い女よりも、何も知らない無知な女こそ素晴らしいという。彼はその考えに従って、孤児であったアニェスを引き取り、修道院に入れて育ててきた。成長したアニェスはひどく無邪気で、まさに望み通りに育っていたので、明日にも結婚する決心を固める。アルノルフ邸へ親友オロントの息子、オラースがやってきた。彼はアヴァンチュールの真っ最中だと、アルノルフに告げる。また笑いの種が聞けると興味深く話に耳を傾けるアルノルフだが、なんとその相手はアニェスであった。オラースはアニェスをこれまで修道院に入れていたのがアルノルフであることを、知らなかったのである。焦ってアニェスを問いただすと、彼女もオラースに惹かれており、恋をしていることを認めてしまう。急いでアニェスと結婚するべく様々な手を打つが、オラースにアニェスを奪われてしまうアルノルフ。アルノルフはまさに「女房を教育するための学校」としての役割を務めただけなのであった。 1661年に書かれた『亭主学校』と扱っているテーマはほとんど変わらない。公演ではアルノルフをモリエールが演じた[1]。 成立過程モリエールは1662年40歳の時、劇団の20歳の女優アルマンド・ベジャールと結婚 このような中上演が開始された「女房学校」は、モリエールが生涯獲得した成功の中でも、もっとも輝かしいものであった。初演以後、翌年の復活祭までに31回の公演が行われ、モリエールの死去する1673年までに88回行われた。公開から1870年までに行われた公演は1300回以上に上るという。この作品の大成功によって、モリエールは国王から1000リーヴルの年金を獲得しただけでなく、自分の息子の代父母として国王ルイ14世夫妻を持つなど、演劇界と宮廷における地位を不動のものとするに至った[2]。 『女房学校』が扱った娘の教育、結婚というテーマは、貴族文化が円熟期を迎え、富裕化した町人階級の台頭が目立ってきた1660年代における重要な社会・時事的問題であった。現在とは違って、当時の女性たちには恋愛や結婚に関して自由な意思など与えられておらず、父親の押し付ける結婚に従うか、それがいやなら修道院に行くか、この2つしかなかった。女性たちはこうした強制的な結婚に、親の横暴と、結婚後の夫の横暴の2重の横暴があると考えていたのである。『女房学校』は、モリエールが女性教育や自由主義擁護のために、こうした社会問題に投げつけた爆弾であったのである[3][4]。 →「女房学校批判 § 解説」も参照
ところが、数年前まで南フランスを巡業していた旅役者に過ぎなかった男がこれほどまでに大成功を収めたことは、当然ながら同業者たちの嫉妬心を激しく炙りたて、翌年1663年に「喜劇の戦争」が勃発するのである。 「喜劇の戦争」勃発1663年、「女房学校」を巡って、モリエールと作家たちの間で応酬が起こった。批判の言葉を並べるなど、直接的な方法ではなく、あくまで喜劇の形を借りての応酬であるのが特徴的である。この戦争は、以下のような経過をたどった[5][6]。
また、「女房学校批判」において展開されたモリエールの主張と反論は以下の4点にまとめることができる。1点目がコルネイユ兄弟の心証を害し、不和を招いた[7]。
日本への紹介翻案という形ではあるが、現在判明している中では最も早くに日本語に翻譯された作品である。明治19年(1886年)10月31日~11月23日に読売新聞紙上において『南北梅枝態』と言う題名で連載された。訳者は「湖東生」と言う人物だが、彼については何者なのか未だ詳らかではない。 日本語訳
翻案
脚注
|