太田裕哉
太田 裕哉(おおた ゆうや、1988年8月16日 - )は、宮城県多賀城市出身の元プロ野球選手(投手)。 経歴プロ入り前多賀城市立第二中学校から一関学院高等学校に進学[1]。1年時から公式戦に登板。2年時の夏からエースとなり、秋の東北大会でベスト4に進出し[1]、翌年の第78回選抜高等学校野球大会の出場校に希望枠で選出された[1]。大会は1回戦の岐阜城北高戦で、尾藤竜一との投げ合いの末1-2でサヨナラ負け。夏は、岩手県予選準決勝で敗退。 高校卒業後は日産自動車に入社。同社野球部在籍2年目の2008年、第79回都市対抗野球大会で初登板、3年目の2009年に野球部の活動休止が決まり、翌2010年から同僚の久古健太郎と共に日本製紙石巻に移籍。日本製紙石巻では主に中継ぎとしてチームを支えてきたが、2011年3月11日に発生した東日本大震災の影響で石巻工場が被災。野球部も活動を休止し、工場の泥のかき出し作業などに追われ、また自身も親族を失った中で、ランニングや筋肉トレーニングを続けていた[2]。 2011年10月27日に行われたプロ野球ドラフト会議で、日本製紙石巻の同僚・比屋根渉と共に、東京ヤクルトスワローズからの指名を受けて入団(比屋根は3巡目・太田は4巡目で指名)。前年に入団していた久古とは、日産自動車・日本製紙石巻時代に続いてチームメイトになった。東京ヤクルトからの指名挨拶を受けた際、挨拶に赴いた八重樫幸雄スカウト(宮城県出身の元捕手)から小学校6年生の時に野球教室で指導を受けていたことを明かす[3]。 プロ入り後即戦力の左腕投手として期待されたが、入団後の実戦登板で制球難を露呈したことなどから、1年目の一軍登板機会なし。入団2年目の2013年には、スリークォーターからサイドスローへの転向[4]で制球力の向上を図ったものの、イースタン・リーグ公式戦30試合の登板で防御率5.81、与四球率10.59。入団以来一軍公式戦での登板機会がないまま、 10月1日に球団から戦力外を通告された[5]。なお、2014年からは打撃投手として球団に残る[6]。 選手としての特徴・人物左のスリークォーターから最速144km/hのストレートに、2種類のスライダー・カーブ・スクリューなどキレの良い変化球を駆使する[7]。しかし、制球が安定しなかったことから、2013年には投球フォームをサイドスローに改めていた。 詳細情報年度別投手成績
背番号
脚注
関連項目外部リンク
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