マインツ大司教ペーター・フォン・アスペルトの墓(マインツ大聖堂)。1306年から1320年までドイツ大書記長を務めた。
大書記長 [ 1] (だいしょきちょう、ラテン語 : archicancellarius , ドイツ語 : Erzkanzler ) は、神聖ローマ帝国 における王国の最高職。ドイツ王国 の大書記長職はマインツ大司教 ・選帝侯 によって継承され、現在のドイツ とオーストリア の首相 にまで通じている。また中世 においてはこれに限らず、書記官や公証人の仕事を監督する役人も指した[ 2] 。日本語文献では帝国宰相 [ 3] 、大宰相 [ 4] 、大法官 [ 5] といった訳語も用いられている。
カロリング帝国
ピピン3世 から始まるカロリング帝国 では、9世紀に各地に書記長(ドイツ語: kanzler)を置く体制が成立した。ランス大司教 ヒンクマール (英語版 ) は、この役職を「宮廷と王国の秩序」(De ordine palatii et regni )における「高位の書記官」(summus cancellarius )と呼んでいる。864年にロタール1世が発した憲章では、ヴィエンヌ大司教 アギルマール (英語版 ) が大書記長(ドイツ語: Erzkanzler)と呼ばれている。この頃から、年代記 にも大書記長という役職名が現れ始める[ 2] 。カロリング帝国における最後の大書記長は西フランク王国 のランス大司教アダルベロン (大司教在位: 969年-988年)で、この役職はユーグ・カペー の即位に伴いフランス書記長 (英語版 ) に置き換えられた。
神聖ローマ帝国
三王国の大書記長職の成立
ドイツ王オットー1世 のもとでは、ドイツ大書記長の役職はマインツ大司教 の相続職となった。オットー1世がイタリア王ベレンガーリオ2世 を廃位して962年に神聖ローマ皇帝 となると、イタリア王国 にも同様の役職が創設された。11世紀初頭には、イタリア大書記長職はケルン大司教が代々継ぐものになっていた。つまり形式上、ドイツにおける皇帝の職務はマインツ大司教が統括し、イタリアにおける職務はケルン大司教が統括することになった。ただ後者はイタリアから遠く離れているため、しばしば代理の代表者が職務を担当した。1042年ごろ、ハインリヒ3世 が新たに獲得したアルル王国 にも大書記長職を置き、初代にブザンソン (英語版 ) 大司教ユーグ1世を任命した[ 6] 。しかし12世紀からは、トリーア大司教 がアルル(ブルグント)大書記長職を受け継ぐようになった。
選帝侯体制以降
カール4世 は、1356年の金印勅書 (英語版 ) において正式に帝国の3つの大書記長職を3人の聖界選帝侯 に割り振り、それまでのマインツ、ケルン、トリーアの各大司教による継承を追認した。しかし実際の神聖ローマ皇帝選挙 においては、ドイツ書記長であるマインツ大司教のみが主催者となった。この3大司教による書記長体制は、1803年の帝国代表者会議主要決議 によりマインツ大司教領 が世俗化されるまで、帝国の根幹であり続けた。ただ最後のマインツ選帝侯カール・テオドール・フォン・ダールベルク は、1806年に神聖ローマ帝国が解体 (英語版 ) されるまで大書記長を名乗り続けた。また後のドイツ帝国やヴァイマル共和国の首相 [ 7] 、オーストリア帝国 の首相 [ 2] 、そして今日のドイツ首相 やオーストリア首相 も神聖ローマ帝国のドイツ大書記長の名残を残している。
フランス帝国
フランス第一帝政 では、ナポレオン1世 が法律顧問筆頭のジャン=ジャック・レジ・ド・カンバセレス に帝国大書記官 の役職を与えた。
ミクロネーション
現代においては、ミクロネーション の一つ「ロシア帝国 」において、ニコライ3世 がアントン・アレクセーヴィチ・バーコフ (英語版 、ロシア語版 ) を大書記長に任じている[ 8] [ 9] 。
神聖ローマ帝国の大書記長の一覧
関連項目
脚注
^ 横川大輔「一四世紀後半における「金印勅書」(一三五六年)の認識 : カール四世の治世(一三七八年まで)を中心に 」『北大法学論集』第63巻第2号、北海道大学大学院法学研究科、2012年、299-354頁、ISSN 0385-5953 、NAID 40019416199 。
^ a b c この記述にはアメリカ合衆国 内で著作権が消滅した 次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh , ed. (1911). "Archchancellor ". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 2 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 358.
^ シュック・ゲルハルト, 屋敷二郎「ライン同盟規約と近代ドイツ立憲主義の端緒 」『一橋法学』第3巻第2号、一橋大学大学院法学研究科、2004年6月、483-498頁、doi :10.15057/8720 、ISSN 13470388 、NAID 110007619936 。
^ 屋敷二郎, 屋敷二郎;訳「資料 : ライン同盟規約(1806年7月12日)全文試訳 」『一橋法学』第3巻第2号、一橋大学大学院法学研究科、2004年6月、499-508頁、doi :10.15057/8726 、ISSN 13470388 、NAID 110007619942 。
^ 高梨久美子「神聖ローマ帝国大使の見たヘンリー八世の離婚問題 : Eustache Chapuysの書簡を用いて 」『お茶の水史学』第49号、読史会、2005年12月、37-75頁、ISSN 02893479 、NAID 110005944270 。
^ Stefan Weinfurter, The Salian Century: Main Currents in an Age of Transition (University of Pennsylvania Press, 1999), p. 97.
^ Reincke.
^ https://www.wsj.com/articles/this-mans-quest-to-restore-the-russian-empire-isnt-going-well-1492351200
^ https://www.rt.com/news/376747-romanovs-bakov-kiribatu-empire/
^ Zahn, J. (1875). Urkundenbuch des Herzogthums Steiermarkt, vol. I: 798-1192 . Graz: Verlag des Historisches Vereines für Steiermark. pp. 60-68
^ Zahn, J. (1875). Urkundenbuch des Herzogthums Steiermarkt, vol. I: 798-1192 . Graz: Verlag des Historisches Vereines für Steiermark. p. 69
^ Zahn, J. (1875). Urkundenbuch des Herzogthums Steiermarkt, vol. I: 798-1192 . Graz: Verlag des Historisches Vereines für Steiermark. pp. 119-120
^ Zahn, J. (1875). Urkundenbuch des Herzogthums Steiermarkt, vol. I: 798-1192 . Graz: Verlag des Historisches Vereines für Steiermark. p. 137
参考文献