大島 (川崎市)
大島(おおしま)は、神奈川県川崎市川崎区の町名[5]。現行行政地名は大島1丁目から大島5丁目。住居表示実施済区域[6]。面積は58.31 ha[2]。 地理川崎区の北西部に位置し[7]、かつて多摩川が作った三角州の一部で、土地は全体に平坦である[8]。一帯は住宅地となっている[7]ほか大衆演劇の劇場があるなど、庶民的な街である[9]。 大島は北端で富士見・中島・藤崎と、東端で桜本と、南端で神奈川県道101号扇町川崎停車場線(新川通)を挟んで浜町・追分町・大島上町と、西端で境町と接する。これらの町域はすべて川崎区に属しており、大島は区境・市境に接していない。 地価住宅地の地価は、2024年(令和6年)1月1日の公示地価によれば、大島3-37-15の地点で30万7000円/m²となっている[10]。 歴史中世以前詳細は不明であるが、当地からは貝塚のように貝が発掘されており、浮洲上での生活がうかがわれる[11]。また、当地の真観寺は814年(弘仁5年)の創建と伝わるほか、八幡社についても後三年の役の際に当地から源氏へ提供された兵糧への返礼として建てられたという伝承がある[11]。さらに、近世の文献から、平安末期の河崎荘に大島が含まれていたことがうかがわれる[11]。 真観寺の観音像の胎内にあった銘によれば、この寺は1595年(文禄4年)に中興したという[8]。 江戸時代江戸時代の当地は橘樹郡大島村として天領であった[8]。村高は、正保期の『武蔵田園簿』で477石あまり(別に塩の賦課や野銭場もあり)[8]、『元禄郷帳』では591石あまり[12]、『天保郷帳』では684石7斗あまり[13]、幕末の『旧高旧領取調帳』でも684石あまりであった[12]。年貢以外の負担として、川崎宿の定助郷[8]や鷹狩用のケラ、江戸城に放つホタルなどの上納も課されていた[12]。 『新編武蔵風土記稿』によれば、家は144軒あり、そのうち飛地(現在の伊勢町付近)に6軒建っていたという[8][14]。水は二ヶ領用水を用いたが、下流にあって水が回らないことがあり、1821年(文政4年)には用水の下流に位置した川崎領の20村が団結して溝口村の名主宅を襲撃するという溝口水騒動が勃発している[12]。また、海岸線も開拓が進められ、大島新田[8]や大師河原の池上家による池上新田[12]が成立していった。 明治以降明治維新以降、当地は神奈川県に属し、行政上は大島村→田島村→田島町→川崎市と推移していった。明治期には沿岸部を埋め立てて果樹園とする構想のもとに青木新田(現浅野町)が成立したが、近隣にできた日本鋼管へ向けて道路が引かれる[13]など、周辺は工業地と化していった。大正時代から昭和初頭にかけて、耕地整理が行われて大島からいくつか町が分立していったが、川崎市が政令指定都市に移行するのと前後して区画整理・住居表示が行われ、町名もそこで再編成された[13]。 地名の由来もともとこの周辺一帯は多摩川のデルタ地帯にあたり、その中にあった当地が大きな中州であったことからその名が付いたのであろうと考えられている[8]。 沿革
世帯数と人口2024年(令和6年)9月30日現在(川崎市発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
人口の変遷国勢調査による人口の推移。
世帯数の変遷国勢調査による世帯数の推移。
学区市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2023年4月時点)[21][22]。
事業所2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[23]。
事業者数の変遷経済センサスによる事業所数の推移。
従業員数の変遷経済センサスによる従業員数の推移。
交通路線バス1924年(大正13年)に大島自動車商会によって運行開始となった川崎駅 - 大島四ツ角の路線バスは、その後に川崎大師まで延伸され、2024年現在も川崎鶴見臨港バスが川23系統として運行している。このほか、川崎鶴見臨港バス・川崎市交通局の路線が当地を通っている。 道路神奈川県道101号扇町川崎停車場線(新川通)が当地の南端を通過している。 施設
金融機関
教育その他日本郵便警察町内の警察の管轄区域は以下の通りである[26]。
関連項目脚注
参考文献 |