塩見正直塩見 正直(しおみ まさなお、1936年(昭和11年)- )は、日本の環境自動車技術者、経営者。トヨタ自動車・エスティマ、プリウスの開発者。トヨタ車体株式会社会長。「環境のトヨタの立役者」として知られる[1]。 来歴生い立ち昭和11年(1936年)、龍雲寺住職・塩見正道の次男として京都府福知山市雲原に生れる。曾祖父は出石藩士・塩見信四郎[2]。 昭和34年(1959年)3月、名古屋工業大学機械工学科卒業[1]。 自動車技術者として昭和34年(1959年)4月、トヨタ自動車工業株式会社(現・トヨタ自動車株式会社)入社[3]。 昭和49年(1974年)、同社技術部シャシー設計課・課長[1]。 昭和55年(1980年)、タウンエース主査(チーフエンジニア[1])。 エスティマの開発昭和58年(1983年)、エスティマの主査(CE)となり、翌昭和59年(1984年)、製品開発企画室に配属。商用車・SUVの開発に従事する。塩見は、
をコンセプトに車輌を開発。エンジンは、床下にエンジンを格納するため、小型化し、75度傾けて搭載することを提案したが、開発当時、このエンジンのを「横倒しエンジン」と呼んでいたため、「お前はトヨタを倒す気か!」と言われて揶揄され以降は「低姿勢エンジン」と呼び方を変えて開発を進めた[4]。 補機駆動システムは、車両前部のフード内に、PSポンプやファンを格納。後部からドライブシャフトを介して駆動するという独自の構造を採用した[4]。 また、エンジンオイルレベルセンサーを設け、エンジンオイルオートフィーダーシステムを開発し、エンジンオイルの量のチェックと自動的に補充を行うことが出来るようにした。シャシーの開発は、ミッドシップエンジンのレイアウト、ロングホイールベースとワイドトレッド、低重心によって、基本的に理想の重量配分と最小のヨーイング慣性のモーメントを実現して、さらに最新の独立懸架とディスクブレーキを採用し、これらを高次元で融合することで、操安性、乗心地、ブレーキ性能を達成した[4]。 昭和63年(1988年)、技術担当取締役に就任。初代エスティマは、性能・外観ともに魅力ある自動車の開発を目指し、斬新なボディー形状を採用。平成2年(1990年)2月にアメリカで販売を開始し、日本と欧州、豪州については、3ヶ月遅れて5月に販売を開始した[4]。エスティマは車内空間と乗用車並みの運転性能をワンボックスカーで実現し、自動車市場を席捲。「トヨタの天才タマゴ」と呼ばれ、日本の「カーオブザイヤー」など、多数の賞を受賞する[4]。 ハイブリッド式自動車の開発平成4年(1992年)、常務取締役・第3開発センター長に就任。EV開発部を新設し、ハイブリッド車輌、燃料電池車輌などの自動車の環境対策に関する新技術を研究。(プリウス開発時の商用車開発センター長、ハイブリッド式自動車の開発拠点となったEV部、BR-VF室を担当[3]) 二酸化炭素排出の削減などを念頭に、地球環境に優しい電気自動車、燃料電池車の開発に着手し、電池新会社の設立にも尽力[3]。 ハイブリッド燃料によるマイクロバスおよび、世界初の量産ハイブリッド式乗用車の開発にあたり自ら陣頭指揮を執る。この結果として世界で最も量産された電気自動車の開発する事となった[1]。 自動車部品にバイオ革命をもたらす平成8年(1996年)、アラコ株式会社の社長に就任すると同時に「環境」と「福祉」をキーワードに、環境に優しいバイオマテリアルの自動車部品開発に着手。小型EV・コムスを開発。平成13年(2001年)、アラコ株式会社の会長に就任した[3]。 平成15年(2003年)5月、100%植物製部品を搭載した世界初の自動車・ラウムを開発し販売。これ以降、トヨタ自動車は「環境のトヨタ」として認識されるようになり、ラウム開発の一翼を担った塩見正直はリサイクル技術の活用、超小型電気自動車の導入、高度なバリアフリーを実現した福祉車両の開発に携わるなど、多くの商品を世に送り出し、「環境のトヨタの立役者」として世界の自動車技術者の中で知られる存在となった[3]。 平成16年(2004年)、トヨタ車体株式会社の会長に就任。さらに翌平成17年(2005年)、トヨタ車体株式会社の技監に就任。塩見が燃料電池車からバイオマスに転換を行った背景には、ハイブリッド車、燃料電池車などのモーター駆動を取り入れた低公害車の開発力があった。しかし、1990年代初めまでは、トヨタ自動車はこの分野で決して他社より抜きん出た存在ではなく、熾烈な開発競争の中で世界トップに躍り出た裏には、塩見の環境車開発に対する深い信念があったと言われる[1]。 これらの塩見の研究は、多くの支持を受け、今日のSUV車両コンセプトにも受け継がれていのみならず、20年間に及ぶ自動車のシャシー部分開発においても、世界に前例のない独創的な新機構を多数開発し、快適な乗り心地ある自動車の礎を築く事となった[5][6]。 講演
受賞インタビュー関連系図
注釈
参考文献関連項目 |