堀辺正史
堀辺 正史(ほりべ せいし、1941年10月14日 - 2015年12月26日)は、日本の武道家。日本武道傳骨法創始師範。茨城県水戸市出身。 経歴・人物著書『喧嘩芸骨法』において、「東條英機のボディガードを務めた父[1]からその技を相伝され、骨法司家の第52代・源一夢(みなもとのいちむ)を襲名し、伝統的骨法の修行の傍らケンカ・他流試合に明け暮れた日々の中から、実戦的な格闘技術を習得、古流の骨法を改革して喧嘩芸骨法を創始した」と明かしている。 1980年代後半にはアドバイザーとして新日本プロレスと関わりがあり、同時期に新日との接点があったビートたけしのスーパージョッキーにも出演していた。 1994年のバーリトゥード時代の幕開けに合わせて、喧嘩芸路線から脱却し、より競技性を重視した格闘技路線に変更し『日本武道傳骨法』へと流派名を改称。 愛国思想家としても知られ、一水会の鈴木邦男の他、晩年は小林よしのりとの親交を温めるなどした。 2015年12月26日に心不全のため亡くなった。 過去の大東流との関わり所属態様(弟子として門下生の立場にあったのか、講習を受けた程度の立場だったのか)については不明だが、過去の一時期に吉丸慶雪(吉丸貞雄)の紹介で大東流佐川道場に在籍していたことがあり、吉丸と共同で『換骨拳』の道場を立ち上げた際に、二人は佐川幸義とトラブルになり、吉丸もろとも佐川道場を離れることとなったと言われている。離脱の真相(佐川とのトラブル等)については事実は定かではないが、堀辺が吉丸および佐川道場(大東流)と関わりがあったことは、以下のことから確実であると言えよう。
上の一文を含む文書(『木村達雄先生質問状-総括』)自体は、佐川道場師範代であった吉丸が当該道場を離門後に、佐川の主たる後継者の地位を得た木村達雄が、後年その著作『透明な力』において吉丸に対して批判的な言動を行ったのに対して、弁明のために吉丸が記してネット上に公開したものである。特に堀辺に宛てた文書ではない。 この吉丸の叙述は、堀辺サイドから出た情報ではないので、客観性の面から言って信頼性が高い情報である。実は、このような吉丸および佐川道場(大東流)との関わりは、既に1987年の時点で、堀辺自身が自著(『喧嘩芸骨法』p258~259)において公言している内容であり、特別目新しい情報ではない。
吉丸サイドから出た、それも特段堀辺のために記したわけではないこのような情報が、1987年の時点での堀辺の叙述と整合しているという事実は、むしろ堀辺自身の当該著書の内容の信憑性を極めて強固に裏付けるものであると言える。 著作
会報の「骨法通信」
作詞脚注
関連項目
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