国鉄3380形蒸気機関車3380形は、かつて日本国有鉄道の前身である鉄道院・鉄道省に在籍したタンク式蒸気機関車である。 概要元は、1906年(明治39年)に山陽鉄道が自社の兵庫工場で4両を製造した[1]、車軸配置2-6-2(1C1)、ヴォークレイン4気筒複式の飽和式タンク機関車である。概ねアメリカ合衆国の様式に則っているが、細部のデザインが変更され、近代的な形態も併せ持っていた。形式は28形、番号は125 - 128であった。 前年に同じ兵庫工場で製造されたヴォークレイン複式のテンダ機関車27形(後の鉄道院8500形)とは、各部の寸法が共通であり、後年の鉄道省C12形/C56形と同様の系列設計となっている。先従台車はビッセル式で、先輪は内側式台枠、従輪は外側式台枠であった。側水槽や後部炭庫は平皿鋲を用いて、フラッシュ仕上げとなっていた。 1907年(明治40年)、山陽鉄道は国有化されたが、しばらくは山陽鉄道時代の形式番号で使用された。その後、1909年(明治42年)には鉄道院の車両称号規程が制定され、本形式は3880形(3880 - 3883)に改められた。 国有化後は一時山陰線(豊岡機関庫)で使用されたが、再び神戸機関庫に戻り、1919年(大正8年)には北海道に転出した。廃車は、いずれも1925年(大正14年)で、全車が解体となった。 海中転落事故本形式の3382は、神戸機関庫時代の1918年(大正7年)11月28日、加減弁とブレーキを閉め忘れていたため、自然に動き出して、留置中の5101と221を押し出し、海中に転落させるという事故を起こし、川崎造船所からクレーン船を借り出して引き上げるという騒ぎになっている[2]。この事故により大破した機関車はいずれも復旧されたが、本形式は北海道へ転出となった。一説には、この事故を有耶無耶にするため、北海道に島流しにしたともいわれる[3]。 主要諸元
脚注
参考文献 |
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