国鉄6120形蒸気機関車6120形は、かつて日本国有鉄道の前身である鉄道院・鉄道省に在籍したテンダ式蒸気機関車である。 概要元は、山陽鉄道が1900年(明治33年)にアメリカのスケネクタディ社で8両(製造番号5688 - 5695)を製造した、車軸配置4-4-0(2B)、2気筒単式の飽和式テンダ機関車である。山陽鉄道での形式は16形、番号は88 - 95であった。1906年(明治39年)、山陽鉄道は国有化されたが、しばらくは山陽鉄道時代の形式番号で使用された。その後、1909年(明治42年)には鉄道院の車両形式称号規程が制定され、本形式のうち7両は6120形(6120 - 6126)に改められた。 本形式のうち1両(93)は、国有化直前の1906年に自社兵庫工場でシリンダの改造(弁室のピストンバルブ化)を受け33形(番号は不変)となり、国有化にともなって6050形(6050)とされている。 本形式は、12形(後の鉄道院5900形、13形(後の鉄道院5950形)とともに5フィート(1524mm)径の動輪を持つ急行列車牽引用機関車で、前出の2形式よりもやや大型であった。また、基本的なプラクティスは鉄道院5700形に準じており、形態も似通っている。ボイラーは、上辺が水平なストレートトップ型となり、第1缶胴上に砂箱を、第2缶胴上に蒸気ドーム、火室上に台座を設けて安全弁を設置しており、テンダは片ボギーの三軸タイプである。本形式の使用成績は良好であったと見え、山陽鉄道では自社で本形式を模倣した17形、25形(後の鉄道院6100形)を製造している。 6120形の国有化後は、糸崎、山田(伊勢市)、大津に分散し、山陽本線の岡山・糸崎間、東海道本線の米原・大津間、草津線、参宮線で区間列車用として使用されたが、後に岡山を経由して米子に集結し、山陰本線で使用された。1924年(大正13年)から翌年にかけて、全車がタンク機関車に改造され、1060形(1060 - 1066)となり消滅した。 6050形については、岡山・広島間で使用された後、関西本線に移り、1922年(大正11年)に廃車された。 主要諸元6120形の諸元を示す。
1060形6120形を1924年および1925年にタンク機関車に改造したものである。その際、煙突はパイプ式に改められ、蒸気ドームと安全弁の間の狭いスペースに砂箱が増設された。増設された側水槽の容量は大きくないが、その代りに後部水槽が増強され、他のタンク化改造機が1軸で受けたのに対して、内側台枠式の2軸ボギー台車となっている。改造はすべて鷹取工場で、改造年と新旧番号の対象は次のとおりである。
改造後は片町線で使用されたが、晩年は姫路や鷹取で入換専用に使用された。廃車は1934年(昭和9年)から1936年(昭和11年)にかけて行われ、全車が解体された。 主要諸元
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