吉田神社 (水戸市)
吉田神社(よしだじんじゃ)は、茨城県水戸市宮内町にある神社。式内社(名神大社)、常陸国三宮で、旧社格は県社。 概要水戸市中心市街地の南部、小高い丘である朝日山の山上に鎮座する。創建には日本武尊の東征との関わりを伝える。武神である日本武尊を祀ることから、蝦夷征伐の過程で古くから朝廷からの強い崇敬を受けた神社である。社殿は戦災で焼失したが、境内には日本武尊にまつわる場所が現在も「三角山」として残されている。 祭神祭神は次の1柱[1]。 歴史創建『常陽式内鎮座本紀』『常陸二十八社考』によると、日本武尊が東征の際にこの地(朝日山/三角山)で兵を休ませたといい、これにちなんで社殿が造営されたのが創建であるという[2]。創祀年代は不詳であるが、吉田神社所蔵の古文書によれば、正安4年(1301年)に鎮座以来800余年を経過した旨の記載が見える[2][1]。1985年10月19、20日開催の秋季例大祭は創建1500年祭として実施した[3]。休憩場所とされる地は、現在も境内一角に伝えられている。 この伝承に対して、『常陸国風土記』では那賀郡における日本武尊の説話が見えないことから、日本武尊への結びつけを平安時代初期頃と推測する説もある[4]。 概史国史での初見は承和13年(846年)で、従五位下勲八等の神階にある「吉田神」が名神に列したと記されている[2]。その後、神階は天安元年(857年)に従四位下勲八等、貞観5年(863年)に従四位上勲八等、元慶2年(878年)に正四位下勲八等に昇った[2]。 延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、常陸国那賀郡に「吉田神社 名神大」と記載され、名神大社に列している[2]。また、吉田社は常陸国において鹿島神宮(一宮)、静神社(二宮)に次ぎ三宮に位置づけられ、鹿島神宮に次いで式年造営も行われたという[5]。このように常陸国で第3位、那賀郡(那珂郡)で第1位に位置づけられたのは、武神である祭神の日本武尊と蝦夷征伐との関係や、水戸西方で勢力を張っていた那賀郡領の宇治部氏の衰退との関係が背景にあるといわれる[6]。 中世には吉田社の神郡として那賀郡から「吉田郡」が分立したが、吉田社の社領は158町で吉田郡の半分に及んだ[7]。この社領は以後荘園としての性格を強め、「吉田庄」とも称された[7]。また当社は薬王院を神宮寺とし、神社には6間と3間の回廊や鳥居・玉垣があり、多くの付属建物や末社が存在したといい[6]、神階も正一位に達したと伝える[2]。その後は薬王院が天台宗の中心地として隆盛するとともに争論が増え、神威は衰退した[6]。 江戸時代には水戸藩から篤い崇敬を受け、特に徳川光圀は寛文6年(1666年)に本殿・拝殿ほか多くの社殿を修造し[6]、徳川斉昭は天保15年(1844年)に『大日本史』と社領100石を寄進した[4]。 明治維新後、明治6年(1873年)4月に近代社格制度において県社に列した[2]。 昭和20年(1945年)には、空襲で社殿全てが焼失した[2]。昭和23年(1948年)に社殿が再建され、その後の改築・修理を経て現在に至っている[2]。 神階
神職吉田社の社務は、古くは吉美候氏(きみこうじ)が担ったとされる[6]。この吉美候氏の出自・性格は詳らかでないが、奈良時代初期頃に帰属した蝦夷であるともいわれ、蝦夷との深い関係を指摘する説もある[4]。その後に吉美候氏は、長承年間(1132年-1135年)に中央公家の小槻氏に社務職(領家職)を寄進した[6][7]。この寄進は、在庁官人の介入や土豪の押妨から社領を守るためであったとされる[7]。 その後の変遷を経て、明治以前の旧社家としては5家(田所氏・阿久津氏・榊氏・渡邉氏・井上氏)があった。そして大日本帝国憲法による社家制度の廃止を経て、明治中期までは田所氏、以後は阿久津氏が担った。戦後の宗教法人法制定後は、何人かの神職を経たのちに平成初期まで阿久津氏が担い、現在は田所氏が担う。 境内本殿は神明造銅板葺、拝殿・幣殿は入母屋造銅板葺で、いずれも戦後の再建[2]。 参道には「朝日三角山遺蹟」として、祭神の日本武尊が休んだという場所が聖別されている[2]。この三角山はかつて本殿が営まれた跡とも、祭祀の跡ともいわれる[4]。
摂末社別宮『廿八社略縁誌』には、別宮として笠原大明神・酒門大明神が記載されている。
境内末社
祭事吉田神社で年間に行われる祭事の一覧[1]。
文化財現地情報所在地 交通アクセス 周辺
脚注参考文献
史料
書籍
外部リンク
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