史楫史 楫(し しゅう、生没年不詳)は、モンゴル帝国に仕えた漢人軍閥の一人である。字は大済。析津府永清県の出身。 概要史楫の祖父の史秉直は最初期にモンゴル帝国に投降した漢人有力者の一人で、その息子で史楫の父の史天倪は父の代わりにモンゴル軍に属し華北各地の平定に活躍した。しかし、1225年(乙酉)に一度モンゴルに降った武仙が裏切って史天倪を殺したため、史天倪の弟の史天沢が武仙を討って事実上史家の惣領の地位を占めるようになった。 史天倪には5人の息子がいたが、未だ幼かった下の3人は史天倪が殺された時に一緒に死んでしまい、年長で親元を離れていた史楫と史権のみが生き残った。史楫は1239年(己亥)に知中山府事に任命され、ついで征南行軍万戸の地位を得た。この頃蘄州・黄州の平定に功績を挙げている[1]。 1242年(壬寅)、史天沢は史楫を連れて国政を代行するドレゲネに見え、「臣の兄(史天倪)が亡くなった時、二人の子供が未だ幼かったために臣が詔を受け府事を代行しました。今既に史楫は成人したため、臣の地位を解き史楫に授けることを乞います」と申し出た[2]。これを聞いたドレゲネは「争って官を求める者は多いが、自ら譲ろうという者は稀である」として史天沢を嘉し、要請通り史楫に真定兵馬都総管の地位を授けた[3]。この頃、史天沢は五路万戸河南経略使、史権は鄧州万戸の地位にあったとされ、兵馬都総管は万戸を兼ねることが多かったことから、史天沢・史楫・史権の属する史氏一族が漢人世侯の中でも屈指の兵力を有していたことを示唆する[4]。 ドレゲネが国政を代行していた時代、アブドゥッラフマーンによって従来の正税(常賦)の他に別途銀7両を徴収する「7両包銀制」の導入が進められ、その後モンケ・カアンが即位するとマフムード・ヤラワチがこの路線を引き継ぎ1251年(辛亥)に「6両包銀制(ヤラワチ税法とも)」を施行した[5]。史楫はこの「6両包銀制」は民に負担を強いるものであるとして強硬に反対し、減額の上一部を従来通りの物納とするよう要請した[6]。『元史』食貨志1には史楫の提唱通り、1255年(乙卯)に「6両」から「4両」に減額の上、その半分の「2両」は銀納でなくともよいとする[7]税法が施行されたと記録されている[8]。 中統元年(1260年)、真定路総管・同判本道宣撫司事の地位を授けられた。ここで史楫は州県の儒士・属吏30人余りを採用したが、後にこれらの者達は皆著名になったという[2]。その後、史楫は史天沢に一門で兵・民の権力を占有するべきでないと述べて隠棲し、59歳にして亡くなった[9]。 息子には常徳管軍総管となった史炫、孟州知州となった史煇、同知東昌府事となった史燧、潼関提挙となった史煊、僉広西按察司事となった史煬らがいた[10]。なお、史楫の妻は「北京路左副元帥某」 の娘であるとされるが、この某は史天祥の配下として活躍した完顔胡速のことであると考えられる[11]。 真定史氏
脚注
参考文献 |