史枢史 枢(し すう、1221年 - 1287年)は、モンゴル帝国に仕えた漢人軍閥の一人である。字は子明。析津府永清県の出身。 概要史枢の祖父の史秉直は最初期にモンゴル帝国に投降した漢人有力者の一人で、その息子で史枢の父の史天安は質子(トルカク)としてモンゴル軍に属し華北各地の平定に活躍した人物であった[1]。史天安の息子である史枢も勲臣の子であることから20歳余りで知中山府に就任し、1254年(甲寅)には従兄弟の史楫・史権は既に官位を得ているのに史枢はまだであることを理由に、叔父の史天沢の上奏により征行万戸に任じられた。征行万戸とされた史枢は真定・彰徳・衛州・懐孟の新軍を率い、唐州・鄧州に駐屯したという。父の史天安の亡くなった1255年(乙卯)には南宋の水軍を漢水の鴛鴦灘で破るという功績を挙げている[2]。 1258年(戊午)、モンケ・カアンによる南宋親征が始まると、史枢も史天沢とともにモンケ率いる軍団に属し、大散関で史枢はモンケ・カアンに謁見した。モンケ・カアンが遠方より参陣した史天沢らを労ったところ、史枢は国の恩に報いるために死力を尽くすつもりである旨を述べると、その発言を気に入ったモンケによって先鋒に任命されたという。この頃、南宋は剣州の苦竹崖に天険の要害を活かした拠点を築いていたが、史枢は足腰の丈夫な者数十人とともにこれを偵察し、史枢の報告により短期間でこれを陥落させることができた。後日の宴会でモンケ・カアンは同席する皇后に史枢に酒をつがせ[3]、周囲の将帥に「我が国の創建以来、皇后が臣下に酒を賜ることはなかった。史枢父子は代々忠義を尽くしてきたことから、特別の待遇を示したのである。今後もよく国に尽くした者には、このように厚く遇するであろう」と呼びかけたという[4]。1259年(己未)には史天沢とともに南宋の将の呂文徳を嘉陵江で破り、重慶まで追撃するという功績を挙げたが、同年中にモンケ・カアンが急逝するという大事件が起き、四川侵攻は一時中止とされてしまった[5]。 モンケ・カアンの死後、その弟のクビライとアリクブケの間で帝位を巡る内戦(モンゴル帝国帝位継承戦争)が勃発し、史天沢と史枢らはクビライ側に味方して中統2年(1261年)にはアリクブケとの戦いのために北方に向かった。中統3年(1262年)、漢人世侯の一人の李璮が済南で叛乱を起こすと、史天沢ともに李璮討伐に派遣された。モンゴル軍は李璮の拠る済南城を攻めるに当たって柵と塹壕で「環城」を築き力攻めを避けるという方針をとり、史枢率いる軍団も済南城西南の大きな川を越えて木柵を築いていたが、ある日豪雨によって木柵が一部流されてしまった。しかし史枢はこれをむしろ好機と見て木柵の途切れた箇所を攻めてくる李璮軍を待ち伏せ、あらかじめ準備しておいた数百の葦に火をつけて放ち、また弩を一斉に放つことによって大勝利を収め、李璮討伐に大きく貢献した[6]。 帝位継承戦争・李璮の乱がクビライの勝利に終わると史枢は再び南宋との戦いの前線に配属され、至元4年(1267年)には開州・達州を包囲した南宋軍を撃退するため左壁総帥となった史枢が河南・山東・懐孟・平陽・太原・京兆・延安の諸軍を統べて出陣したが、これを聞いた南宋軍は戦わずして包囲を解き退却したという[7]。至元6年(1269年)、高麗の金通精が三別抄を率いて珍島で叛乱を起こすと、叛乱討伐軍が派遣されたものの1年経ってもこれを鎮圧することができなかった。至元7年(1270年)、昭勇大将軍・鳳州経略使に任じられた史枢が改めて三別抄討伐のため派遣された。史枢は酷暑の中正面から戦っても不利であると述べ、軍を3つに分けて1軍には多くの旗を立てて敵の注意を引き、その隙に他の軍勢で敵の本拠地を擣くという作戦で叛乱の平定に成功した[8]。 至元12年(1275年)、丞相バヤン率いる南宋侵攻軍に属し、南宋の投降後は安吉州安撫使とされた[9]。しかし、至元14年(1277年)に病を理由に帰還し、至元19年(1282年)には東京路総管に推された時も辞して官に就かなかった。至元23年(1286年)、中奉大夫・山東東西道宣慰使とされたが、至元24年(1287年)に67歳にして亡くなった。息子には昭勇大将軍・後衛親軍都指揮使となった史煥と、奉訓大夫・秘書少監となった史煇がいる[10]。 真定史氏
脚注
参考文献
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