可知貫一可知 貫一[1](かち かんいち、1885年 - 1956年)は、日本の農業土木技術者、研究者。岐阜県出身。円筒分水工の発明者[2]。 人物明治18年(1885年)、岐阜県恵那郡阿木村(中津川市阿木)生まれ[3]。 父の与一は東野村小学校初代校長、阿木村村長を務め、自由民権活動家でもあった[3]。 祖父の鷹見豊次郎も巌邑尋常高等小学校の校長で、貫一は同校の高等科に通った[3]。 明治40年(1907年)、第六高等学校 (旧制)卒業[4]。 明治43年(1910年)、東京帝国大学農科大学農学科卒業。 卒業後は東京高等農林学校教師を務める。 大正3年(1914年)に岐阜県小泉村に第1号が設置された[2]。 同年、東野村で開田対策として人工湖建設を立案し、のちに保古の湖が建設された[5]。 大正7年(1918年)、農商務省技師となり、土地利用の調査、計画を担当。八郎潟干拓の立案はじめ各地の干拓を指導した[3]。 大正12年(1923年)、東京帝国大学農学部講師などを経て、大正15年(1926年)には十和田湖の調節によって三本木原開墾・開発案を樹立。 昭和2年(1927年)、世界農業会議(First Pan Pacific Conference on Education, Rehabilitation, Reclamation and Recreation、同年4月ホノルル開催[6])に出席のため訪米し、TVA計画なども視察[3]。 群馬、埼玉、千葉、茨城、山梨、長野、秋田、熊本、福島、愛知など全国各地の事業計画を完成させるとともに、農業土木の教育、研究指導に功を残した。 著書
家族
参考文献
脚注
外部リンク
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