南部直房
南部 直房(なんぶ なおふさ)は、江戸時代前期の大名。陸奥国八戸藩の初代藩主。官位は従五位下・左衛門佐。盛岡藩主・南部利直とその側室・仙寿院の子[1]。八戸立藩以前は、母方の姓の中里直好(中里数馬)を名乗った[1]。 生涯寛永5年(1628年)、陸奥盛岡藩の初代藩主・南部利直の7男として誕生。 寛文4年(1664年)、兄で盛岡藩2代藩主・南部重直が跡継ぎを決めないまま死去すると、盛岡南部家では御家断絶および領地没収の可能性が濃くなった。生前の重直は幕府による裁定を願い出ており、幕命により重直の異母弟、七戸重信(七戸隼人正)と中里直好(中里数馬)は江戸に上り、裁定を受けた。盛岡藩10万石を分け、8万石を七戸重信が相続し盛岡藩を存続させ、2万石を直好に与えて八戸藩を立藩することとなった[1]。立藩を機に直好は、南部直房と改名した[1]。 寛文8年(1668年)、死去。享年41。 死因は病死であるとされているが、「逆恨みをした盛岡藩の陰謀による暗殺」とする説もあり、当時既に幕府からも調査が入っている。この幕府の調査以降、盛岡藩はわざわざ「八戸藩は分家ではない。独立した対等の立場」と表明している。 跡を長男・直政が継いだ。直政もまたその死因に盛岡藩による暗殺の噂がある。 系譜父母 側室 子女 脚注参考文献
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