北村兼子
北村 兼子(きたむら かねこ、1903年〈明治36年〉11月26日 - 1931年〈昭和6年〉7月26日 )は、大阪生まれのジャーナリスト。女性の権利運動に関心を寄せて執筆をする。日本飛行学校に入学、パイロット資格を取りヨーロッパ訪問飛行を志すが病いで果たせなかった。 生涯漢学者北村佳逸と勝野の長女として生まれる[1]。梅田高等女学校(現大阪府立大手前高等学校)を終えて大阪外国語学校(現大阪大学外国語学部)を卒業後、関西大学法学部法学科にて聴講生としてドイツ法学を学ぶ[1]。同校初の女子学生である[1]。大学在学中に22歳で大阪朝日新聞記者として勤め始める[注釈 1]。昭和初期、正岡容とレコードを吹き込むなどし、三上於菟吉との艶聞も流れた[2]。「華やかでエロティックなインテリ嬢」と評され、多くの文人や成金などに言い寄られた[3]。 退職後、ベルリンで開かれた万国婦人参政権運動(現・国際婦人同盟)[注釈 2]の国際大会(1929年)に参加し、台湾訪問など合計3回渡航する[5]。1931年に相羽有の日本飛行学校に入学し、同年7月操縦士資格を取得。ヨーロッパ訪問飛行を企画していたが、その準備中に腹膜炎が悪化し死去[6]。享年28。 執筆活動自伝に改善社刊『婦人記者廃業記 : 伝記・北村兼子』(昭和3年)、同『大空に飛ぶ』(昭和6年)がある。 女性の社会的地位大阪朝日新聞社発行の冊子「婦人」に但馬・丹後大震災 (1925年・1927年) をはさむ第2巻2–3号[注釈 3]ほか、女性の社会的地位に通じるテーマで「婦人倶楽部」[8]、「法律春秋」[9]、「サラリーマン」[10]、「冨士」[11]に執筆した。台湾について「植民」[12]と「スバル」[13]に寄稿。 文芸・文化関西の演劇界と文芸について「藝術」[14]、「芝居とキネマ」[15]、「関西文芸」[16]、「女人藝術」[17]、「平凡」[18]、「実業時代」[19]、「文学風俗」[20]、「近代庶民生活誌」[21]他に執筆。万国婦人参政権大会に参加した1931年には「新使命」[22]と「文藝春秋」[注釈 4]に記事を寄せる。 このほか、企業の広報誌「三越」[24]や「海」[25]にエッセーを書いている。 飛行士として1930年(昭和5年)11月、イギリス人のミルドレッド・メアリー・ブルースは自らの操縦で、初のイギリス–日本間の単独飛行を成功させた[26]。日本にも北村と同時代に操縦資格を取る女性パイロットの先駆者がおり、日本女性初の航空免許取得者だった兵頭精は自らの操縦で飛び(1921年頃)、木部シゲノは1927年(昭和2年)に女性初の二等飛行機操縦士として朝鮮3都市でデモ飛行をした。北村は1931年(昭和6年)に東京航空輸送社が「エア・ガール」を募集すると、審査委員を務める。自身が飛行免許を取得するのは同年7月6日で、8月14日出発予定でヨーロッパへ飛ぶ準備をしていた[27][28]。 初めて日本人女性パイロットが自ら操縦し海外渡航に成功するのは、1934年(昭和9年)である。二等飛行操縦士の西崎キク(旧姓松本)[29]は馬淵チョウ子が操縦するもう1機と前後して出発、満州国へ渡航している[26]。 著作物自伝
単著
冊子婦人『婦人』は全関西婦人連合会 (The Federation of Women's Societies of Western Japan) の会報として創刊した大阪朝日新聞社発行の雑誌。『婦人朝日』[注釈 7]に引き継がれる。北村の以下の記事を掲載した。以下号数の丸カッコ内数字は通号を示す。
関連文献北村を主題とした研究に大谷渡『北村兼子—炎のジャーナリスト』(東方出版、1999年12月)、同じく『大正・昭和初期日本女性史と台湾 : 北村兼子と〈婦人毎日新聞〉〈台湾民報〉』(関西大学、2006年3月)などがある。 北村兼子を採り上げた研究書籍
紀要・論文集
その他以下の資料の一部は柳沢光二著「第3回北村兼子」(『航空ファン』[43])による。
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目
外部リンク
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