馬淵テフ子

馬淵 テフ子
生誕 (1911-06-05) 1911年6月5日
青森県弘前市
死没 1985年2月23日(1985-02-23)(73歳没)
静岡県伊東市
墓地 都立多磨霊園
国籍 日本
教育 日本女子体育専門学校
飛行経歴
著名な実績 日本で初めて海外へ飛行した女性飛行士の一人
著名な飛行 満州国建国親善飛行(1934年10月)
免許 1934年3月(二等飛行操縦士)
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馬淵 テフ子(まぶち ちょうこ、1911年明治44年)6月5日 - 1985年昭和60年)2月23日)は、昭和初期の日本女性パイロット。女学校の体育教師を務めながら、1934年に二等飛行機操縦士資格を取得。同年に満州国への飛行を敢行し、西崎キクと並んで日本女性飛行士として初の海外渡航を実現した一人となった。NHK連続テレビ小説雲のじゅうたん』のモデルの一人といわれている[1]

なお、苗字については「馬渕」[2][3]、名については「てふ子」[2]「蝶子」[4][5]などの表記ゆれがある[注釈 1]

生涯

生い立ち

1911年(明治44年)6月5日、青森県弘前市において[8][3]、職業軍人の父・馬淵常義[注釈 2]と母・ナヨの長女として生まれる[3]。父は東京出身で[9]、弘前はその任地であった[8][3]。母は秋田県鹿角郡宮川村小豆沢(現在の鹿角市八幡平小豆沢)出身で[10]、実家の安倍あんべ家は大日霊貴おおひるめむち神社(大日堂)の神職を受け継ぐ一族であった[11][12][注釈 3]

テフ子は父の仕事の影響で各地を転々とすることになるが、小学校2年生の時に鹿角の祖母・ハル[12]のもとに預けられ[14]、鹿角郡宮川村立宮麓小学校[注釈 4]に5年生まで通った[10]。こうした事情から「秋田県出身」ともされ[7][注釈 5]、秋田県鹿角市では郷土出身者として顕彰されている[3]。1929年(昭和4年)3月、東京・新宿にあった私立精華高等女学校東海大学付属市原望洋高等学校の前身[注釈 6])を卒業[7]

1929年(昭和4年)、日本女子体育専門学校(現・日本女子体育大学)に入学[7]。身長168cm、体重62kgと当時の女性としては大柄の体格で[7]、陸上競技部に所属し、円盤投選手として活躍した[18]。1930年・31年には日本の陸上界の年間十傑に入る成績[注釈 7]を残している[18]

1931年(昭和6年)に日本女子体育専門学校を卒業[2]横浜のフェリス和英女学校(現・フェリス女学院中学校・高等学校)に体育教師として就職した[18]。徒歩部を作って生徒を引率し北アルプスに赴き、あるいは単独で富士登山を行うなど、活発に活動した[8]

空へ

馬淵が飛行機の練習を始めたのは1932年(昭和7年)のことである[18]1932年ロサンゼルスオリンピックの代表選考に漏れ、失意のうちにいたところ、専門学校時代の同級生・長山きよ子に誘われる形でパイロットを志すようになったという[19][注釈 8]

なお、代表選考で日本女子体育専門学校の石津光恵に競り負け、スポーツの道を断念したとも語られるが[18]、馬淵テフ子と長山きよ子について研究した村山茂代によれば、テフ子は予選会で3位の成績を収めたとはいえ石津との記録の差は大きく[注釈 9]、石津光恵とのライバル関係は過剰な報道によって誇張されたものとしている[18]

1932年(昭和7年)7月に、千葉県船橋にあった「東亜飛行学校」[注釈 10]に入学。1933年(昭和8年)5月に、東京・洲崎に開校して設備の充実していた「亜細亜航空学校[注釈 11]に転校した[注釈 12]。テフ子は教職を続けながら、土曜日・日曜日や夏休みなど余暇を使って練習した[18]。在学中には鹿角の祖母が資金的な援助を行ったという[14][12][注釈 13]。1933年(昭和8年)9月には三等飛行機操縦士の資格を取得[8]

1934年(昭和9年)3月31日、二等飛行機操縦士の資格[注釈 14]を取得[18][注釈 15]。4月、伊豆玄岳へ初の単独飛行[9]。この飛行には、先輩と慕っていた朴敬元1933年8月7日、玄岳で墜落死)追悼の意味合いもあった[9]。7月、ほかの女性二等飛行士とともに日本女子飛行士クラブを結成した[22][23]。日本女子飛行士クラブは「日本の航空法規で一等飛行士になれないのは不公平だと、機会均等のスローガンを掲げ」たといい[23]、メンバーは馬淵テフ子、長山きよ子(雅英)、松本キク(きく子)、正田マリエ上仲鈴子梅田芳江であった[23][注釈 16]

1934年(昭和9年)8月、サルムソン2A2型陸上機で秋田県鹿角への郷土訪問飛行を行う[20][25](同乗者は鎌田毅教官[20])。鹿角には祖母がいた[3]。東京洲崎飛行場を出発したのは8月10日であったが、悪天候やプロペラ故障のため仙台での停滞を余儀なくされ[20]8月14日に能代東雲飛行場を経て、目的地である柴平村菩堤野(現在の鹿角市花輪字菩提野)に着陸した[20][3]。馬淵は宙返りなどを披露し、秋田に赴いていた長山きよ子[注釈 17]は300mからのパラシュート降下を行ったという[20]

満洲国への飛行

(参考)日本陸軍の乙式一型偵察機(サルムソン2A2型を日本でノックダウン生産したもの)。
サルムソン2A2型は傑作機とされ、陸軍がフランスから機体を輸入したほか、日本国内でライセンスに基づくノックダウン生産(部品をすべて輸入しての組み立て製造)も行われ、民間にも多く払い下げられた[7]

1934年(昭和9年)10月には、松本キクとともに満州国建国親善飛行を敢行した[19][26]

飛行には長山が同行する予定であったが、9月21日に飛行機事故に巻き込まれて瀕死の重傷を負った[20]。このため、一等飛行操縦士の朴奉祉教官が同行することになった[27]。使用機種は郷里訪問時と同機種のサルムソン2A2型陸上機で、「黄蝶号」と命名された[28][注釈 18]10月26日に東京・羽田飛行場を出発[28]。11月3日に福岡・大刀洗飛行場から朝鮮半島の蔚山に渡って給油、その日は京城にまで至った[28]11月5日新京に到着[28]。同時に松本キクも「白菊号」(同乗者:佐藤啓三整備士)で満洲への訪問飛行を行っており、10月22日に羽田を出発、テフ子より1日早く11月4日に新京に到着した[28]。両機の「競争」は注目を集め、新聞が連日のように報道した[28]。両機とも途中故障不時着や悪天候を経験しながらも、馬淵は松本と共に日本女性飛行士として初の海外渡航を実現した[29]。なお、白菊号および黄蝶号は現地の小学校に寄贈され、馬淵は船と汽車で帰国した[28]

テフ子の飛行士としての活動は、この満洲国飛行が最後となった[28]ドイツへの飛行を計画していたが[10]1937年(昭和12年)に日中戦争が勃発したために断念。また、女性が飛行機に乗ることは認められなくなった[注釈 19]。対米開戦後、日本軍が快進撃をおこなっていた1942年(昭和17年)1月、女性飛行士の親睦会「紅翼会」の回覧誌にテフ子は、女性には飛行機を駆って活躍できる機会がないことを嘆く文章を寄稿している[31]

後半生

1944年(昭和19年)、戦争の激化により、横浜山手女学院(1942年にフェリス和英女学校より改名)を辞任して静岡県疎開[28]。テフ子は、掛川高等女学校(静岡県立掛川東高等学校の前身)などで体育教師として働き、1964年(昭和39年)に静岡県立清水西高等学校で定年を迎えた[28]

飛行機事故で半身不随となった長山きよ子とともに暮らし[注釈 20]、生活を支えて[32]、静岡県伊東市で静かに暮らした[33]。妹たちやその子や孫たちが遊びにくることがあったが、飛行士時代の話をすることはほとんどなかったという[33]

1976年(昭和51年)にNHK連続テレビ小説雲のじゅうたん』が好評を博し、戦前の女性飛行士に注目が集まった際には、テフ子のもとにも取材陣が訪れた[33]。中学生の大甥はテフ子の過去を知り、自由に空を飛べることをうらやんだが、テフ子は「そんなこともないのよ」と諭すような口調で語ったという[33]。大甥は「良いことばかりではなくいろいろあった」という意味と解している[33]

1985年(昭和60年)2月23日、伊東市にて死去[21]。73歳没。きよ子に先立った[9]。墓は多磨霊園にある[9]

関連文献

馬淵自身は著書は残していないが、同時代から多くの記事にその活躍が描かれた。『フェリス女学院100年史』(1970年)には教え子によるインタビュー記事がある[18]

同時代の記事
  • 黑百合子「聞かずやプロペラーの歌(馬淵テフ子、孃物語)」『少女の友 27(7)』第27巻第7号、實業之日本社、1934年、74頁、NCID AA11242823 
  • 木內キヤウ「知名職業婦人の健康法—馬淵テフ子」『婦女界』第51巻第2号、婦女界社、1935年、302–303頁、NCID AN00084540 
  • 馬淵てふ「飛行機と共にゐる喜び」『婦女界』第51巻第3号、婦女界社、1935年、200–201頁。 
  • 馬淵てふ子(著)、日本旅行倶楽部(編)「満州を語る」『旅 (Travel)』第12巻第5号、新潮社、1935年、100-108頁、ISSN 04921054NCID AN00374675 
  • 馬淵テフ子、松本きく子「訪滿飛行を終へて」『婦女界』第51巻第1号、婦女界社、1935年、NCID AN00084540 
馬淵てふ子への言及を含む書籍・論文

脚注

注釈

  1. ^ 満洲飛行時に逓信大臣あてに提出した自筆文書では「馬渕テフ子」の字体で書かれる一方、活字の公文書では「馬淵テフ子」、外務省外交史料館の一件綴の題目は「馬渕蝶子」である[6]。日本女子体育専門学校の卒業アルバムは「馬渕てふ子」で記されている[7]
  2. ^ 村山(2007年)によれば「砲兵大佐」[7]。『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 明治45年7月1日調』p.877によれば、1912年(明治45年)時点では台湾山砲兵第一中隊長・砲兵大尉であった。
  3. ^ 「小豆沢安倍家」[10]と呼ばれる地域の名家で、宮川村村長を務めるとともに大日堂舞楽を再興した安倍悦人(1858年 - 1941年)や[13]、その弟で1918年(大正7年)まで宮麓小学校校長を務めた安倍多喜恵(1868年 - 1920年)などを輩出した[11]
  4. ^ 1971年廃校。宮麓小学校を含む八幡平地区の6小学校は鹿角市立八幡平小学校に統合された。
  5. ^ 『ヒコーキ野郎』1977年6月号掲載の戦前の女性飛行士一覧表(日本婦人航空協会監修)でも秋田出身とする[15]。郷土飛行先として秋田を選んだことからも、秋田県では郷土出身者として知られた存在で、『雲のじゅうたん』が放送された1976年に秋田県広報誌『あきた』に掲載された佐藤正(秋田魁新報編集委員)の文章には「秋田県出身の女流飛行家としてつとに名高い馬渕てふ子さん」とある[16]。なお、佐藤の文章では、秋田県生まれの及位野衣について「県内ではあまり知られていないが、中央の飛行界では女流ナンバーワン」と紹介している[16]
  6. ^ 村山(2007年)は「東京新宿の私立精華高等女学校(現在は廃校)」とする[7]が、東海大学付属市原望洋高等学校が系譜を継ぐとしている[17]。なお東京には「九段精華高等女学校」もあり、こちらは1945年に空襲で全焼し廃校となった。
  7. ^ 1931年には27.31mで日本6位[18]
  8. ^ 『フェリス女学院100年史』(1970年)に掲載された教え子によるインタビューでは、飛行機を始めた事情について、競技については触れず「長山が飛行機をやりましたので、私も矢も楯もなく一緒にやり始め、一緒に世界一周をしようと思っていました」と語っている[18]
  9. ^ 石津光恵が35.46mを出したのに対して馬淵テフ子は25.47mであった[18]
  10. ^ 1924年(大正13年)に伊藤音次郎が設立した学校で、正式名称は「東亜飛行専門学校」[7]
  11. ^ 飯沼金太郎が開設した学校[7]
  12. ^ 古くは「昭和7年に亜細亜航空学校に入学」という記述もあった。平木(1992年)は、昭和7年には亜細亜航空学校が設立前であることから、同年の入学説を「誤り」と指摘した。村山(2007年)は同時期の新聞記事をもとに、昭和7年に入学した学校を「東亜航空学校」としている[18]
  13. ^ テフ子や長山の経歴・年齢での月給が50円から60円程度であった当時、飛行機の練習費は1時間40円かかった[18]。二級飛行機操縦士免状取得には50時間の飛行が必要であった[20]
  14. ^ 当時の航空法では、職業として空を飛ぶためには一等飛行機操縦士の資格が必要であったが、女性には受験資格がなかった[21][20]
  15. ^ 女性18人目[19][9]、13人目[3]ともいう。村山(2007年)が紹介する『ヒコーキ野郎』1977年6月号掲載の「戦前の女性飛行士一覧表」(日本婦人航空協会監修)によれば、二等飛行機操縦士としては11人目で、昭和4年以前に資格を取得した三等飛行機操縦士が7人いる[18]。なお、戦前の日本の女性飛行士は、村山(2007年)が引く前述の一覧表によれば二等飛行機操縦士20人・三等飛行機操縦士7人[18]。松村(2013年)によれば、1939年10月時点で二等飛行機操縦士15人・三等飛行機操縦士3人がいたという[14]
  16. ^ 当時の新聞記事によれば、この6人が当時現役であった女性二等飛行士の全員であるという[24]
  17. ^ このとき長山きよ子は「長山雅英」または「雅栄」と名乗っていた[20]。『あきた』56号(1967年。ただし馬淵テフ子を「花輪」出身とするなどの誤りが散見される)には「長谷川まさえ」とある[4]
  18. ^ 松本機「白菊号」とともに、逓信大臣が命名したという[14]。当時の逓信大臣は床次竹二郎
  19. ^ 江刺・史の会(2005年)によれば、1937年昭和12年)に女性が飛行機に乗ることが禁止されたとある[9]。松村(2013年)は1939年(昭和14年)10月の新聞記事に、女性飛行士は非国策的であり、育成のために貴重なガソリンを浪費するわけにはいかないから「女性は地上に還ってもらわねば」という文言があることを紹介している[22]。井桁(2000年)は、1940年(昭和15年)に女性飛行士の存在が許されなくなったと記す[30]
  20. ^ 晩年にきよ子はテフ子の養女として入籍している[7]

出典

  1. ^ 鹿角市先人顕彰館研究員(編) 2020, p. 165.
  2. ^ a b c 村山茂代 2007, p. 45.
  3. ^ a b c d e f g h 鹿角市先人顕彰館研究員(編) 2020, p. 164.
  4. ^ a b 人・その思想と生涯(15)”. あきた(通巻56号). 秋田県 (1967年1月1日). 2021年5月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年5月8日閲覧。
  5. ^ 近代100年の舞台を彩った秋田の人物山脈(やまなみ)”. あきた(通巻70号). 秋田県 (1968年3月1日). 2021年5月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年5月8日閲覧。
  6. ^ 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B10074776200、10.女流飛行家馬渕蝶子嬢訪満飛行関係(F-1-10-0-3_003)(外務省外交史料館)」
  7. ^ a b c d e f g h i j k 村山茂代 2007, p. 50.
  8. ^ a b c d 江刺昭子・史の会 2005, p. 226.
  9. ^ a b c d e f g 江刺昭子・史の会 2005, p. 227.
  10. ^ a b c d 鹿角の近代人物伝2:馬淵テフ子”. 鹿角の温故知新への旅. GLN企画普及室. 2013年10月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年5月8日閲覧。
  11. ^ a b 鹿角市先人顕彰館研究員(編) 2020, p. 18.
  12. ^ a b c [投稿見聞録]戦前の女性飛行士<上>「女もできる」満州へ飛んだ”. 読売新聞オンライン. 読売新聞社 (2022年10月13日). 2022年11月25日閲覧。
  13. ^ 鹿角市先人顕彰館研究員(編) 2020, pp. 17–18.
  14. ^ a b c d 松村由利子 2013, p. 197.
  15. ^ 村山茂代 2007, p. 46.
  16. ^ a b 佐藤正「秋田の真琴たち」『あきた』第172号、秋田県、1976年9月1日、2021年5月7日閲覧 
  17. ^ 沿革”. 東海大学付属市原望洋高等学校. 2021年5月9日閲覧。
  18. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 村山茂代 2007, p. 47.
  19. ^ a b c 松村由利子. “女もすなる飛行機—第8回 後続の女性パイロットたち”. NTT出版Webマガジン. NTT出版. 2011年9月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年12月3日閲覧。
  20. ^ a b c d e f g h i 村山茂代 2007, p. 48.
  21. ^ a b 馬淵テフ子”. 歴史が眠る多磨霊園. 2021年5月8日閲覧。
  22. ^ a b 松村由利子 2013, p. 196.
  23. ^ a b c 中正男 1943, p. 174.
  24. ^ 時勢の波に乗って女鳥人の団結/クラブ設立の打合」『大北日報』1934年6月22日。2021年5月12日閲覧。(スタンフォード大学フーヴァー研究所の「邦字新聞デジタル・コレクション」)
  25. ^ 鹿角市先人顕彰館研究員(編) 2020, pp. 164–165.
  26. ^ 馬淵テフ子(著)、日本旅行倶楽部(編)「満州を語る」『旅 (Travel)』第12巻第5号、新潮社、1935年、100–108頁。 
  27. ^ 村山茂代 2007, pp. 48–49.
  28. ^ a b c d e f g h i j 村山茂代 2007, p. 49.
  29. ^ 馬淵テフ子「訪滿飛行を終へて」『婦女界』第51巻第1号、婦女界社、1935年。 
  30. ^ 井桁碧 2000, p. 94.
  31. ^ 井桁碧 2000, pp. 94–95.
  32. ^ 村山茂代 2007, pp. 49–50.
  33. ^ a b c d e [投稿見聞録]戦前の女性飛行士<下>刻んだ偉業 国策の影”. 読売新聞オンライン. 読売新聞社 (2022年10月20日). 2022年11月25日閲覧。

参考文献

関連項目

外部リンク