加藤義秀加藤 義秀(かとう よしひで、1901年〈明治34年〉1月2日[1] - 2002年〈平成14年〉10月[2])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 経歴北海道雨竜郡一已村(現・深川市一已町)出身[1][3][4]。1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校第33期卒業[5]。1930年(昭和5年)陸軍大学校第42期卒業[6]。 フィンランド駐在武官、スウェーデン駐在武官、関東軍参謀、陸軍省兵務局防衛課高級課員を経て、1941年(昭和16年)7月、防衛総司令部参謀に補され、翌8月、陸軍大佐に進む[3]。ついで、1945年(昭和20年)6月1日、第53軍参謀長となり、同月30日、陸軍少将に進んだ[1][3]。済州島の守備に当たる中終戦を迎えた[1]。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[7]。 戦後は日本ボウリング協会の設立に関わり、日本最初のボウリング場「東京ボウリングセンター」の初代代表や全日本ボウリング協会の理事を歴任するなど、ボウリングの普及に尽くした[2][4][8]。 著作
脚注参考文献
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