加藤 光員(かとう みつかず)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。藤原利仁の流れを汲むとする加藤景員の長男。鎌倉幕府御家人。西面の武士。
弟の景廉の長男で甥にあたる遠山景朝の領地である美濃国恵那郡遠山荘の明知(現在の岐阜県恵那市明智町)の龍護寺の境内に、光員一族の墓とされる五輪塔が存在している。