加茂田重政
加茂田 重政(かもだ しげまさ、1930年<昭和5年>7月6日[1] - 2020年<令和2年>9月1日[2])は、日本のヤクザ。暴力団・一和会副会長兼理事長、加茂田組組長、元三代目山口組組長代行補佐。 経歴1930年、兵庫県神戸市で生まれる[1]。父・加茂田松太郎は、二代目山口組(組長・山口登)若衆だった。 高等小学校卒業後 不良となり、窃盗犯として数回検挙されるようなことがあったが、戦時中は海軍に徴兵され輸送船のコックとして従軍した。 戦後、神戸市で活動していたわさび会に加わった。1956年、わさび会が解散したのを機に、三代目山口組(組長・田岡一雄)の若衆となり加茂田会(後に加茂田組に改称)を結成。当初は用心棒などをシノギとした。 程なく大阪で起こった1960年の明友会事件で、この事件の現場責任者として刑務所に長期服役。この間に千葉刑務所で野村秋介と知り合った。野村の著書によると、関東のヤクザの多い千葉刑務所でも己が山口組を代表するとの意識が強く、代紋に対する誇りを感じさせたという。組長・加茂田が長期服役中で不在にもかかわらず山口組の中にあって、加茂田軍団と異名を持った。 田岡一雄亡き後の4代目争いでは、組長代行・山本広を推して一和会に参画し、副会長兼理事長となった。山一抗争の中、賭博罪で服役。1988年4月に北海道の傘下組長が山口組弘道会系組員に暗殺されると、対応を巡って加茂田組は内部から崩壊し、同年5月7日、自身の引退と加茂田組の解散を表明、渡世から身を引いた。 2016年、回想録『烈侠-山口組 史上最大の抗争と激動の半生』(花田庚彦の聞き書きでの著書、サイゾー、のち彩図社文庫)を発表。その翌年5月には当時の写真や関係者のインタビューなどを収録した『烈侠外伝-秘蔵写真で振り返る加茂田組と昭和裏面史』(サイゾー)が発表された。これらの本では若山富三郎や菅原文太などの芸能人との交友関係が明らかにされている。 晩年は妻と離婚、子や孫に囲まれた余生を送った。2020年9月1日、神戸市の病院で死去。90歳没。田岡三代目時代の幹部組員としては最後の生き残りだった。 その他
著書
音楽
脚注
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