劉多荃
劉 多荃(りゅう たせん)は中華民国・中華人民共和国の軍人・政治家。奉天派・国民革命軍(国民政府)に属した。字は芳波。 事跡1921年(民国10年)秋、保定陸軍軍官学校第9期砲兵科に入学する。1923年(民国12年)に卒業すると、張作霖率いる東三省陸軍に加入し、以後順調に昇進した。 1933年(民国22年)3月、国民革命軍第105師師長となる。1935年(民国24年)4月、陸軍少将の位を授与された。翌年12月に張学良が西安事変を起こすと、劉多荃は臨潼で部隊を指揮している。 1937年(民国26年)、劉多荃は第49軍軍長・陸軍中将に昇進した。日中戦争(抗日戦争)勃発後、津浦路や上海方面で日本軍と交戦した。1941年(民国29年)10月、第10集団軍副総司令に昇進し、第3戦区に属した。12月、熱河省政府主席を兼任している[1]。1943年(民国32年)4月、第25集団軍副総司令となった。1945年(民国34年)5月、中国国民党第6期中央候補執行委員に選出されている。 国共内戦の最中では、劉多荃は1947年(民国36年)冬に行憲国民大会代表に選出され、翌年1月に華北剿匪総司令部副総司令に任ぜられた。しかし翌月、熱河省政府主席を突然罷免されてしまう。その後、香港に移って反蔣介石派のグループに加わった。1949年(民国38年)8月、黄紹竑らとともに中国共産党への起義を宣言している。 中華人民共和国では、劉多荃は中国人民政治協商会議全国委員会委員を第2期から第5期までつとめている。1980年1月には、政治協商会議遼寧省委員会の第4期副主席に選出された。また中国国民党革命委員会(民革)に所属し、中央委員会委員、遼寧省委員会主任委員を歴任している。 注参考文献
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