繆澄流
繆 澄流(ぼく ちょうりゅう、1901年 - 1990年12月11日)は、中華民国の軍人。奉天派・国民革命軍(国民政府)に属する。字は開源。 事跡1923年(民国12年)冬、東三省陸軍講武堂歩兵科第5期に入学し、1925年(民国14年)に卒業した。以後、張作霖率いる奉天派で軍歴を重ね、張爆殺直前には旅長に昇進している。 張学良が易幟を行った後の1929年(民国18年)8月に、東北陸軍第16旅旅長に任ぜられた。1933年(民国22年)、国民革命軍第116師師長となる。1935年(民国24年)4月、陸軍少将銜を授与され、翌年10月、陸軍中将銜を授与された。同年12月、張が西安事変を引き起こすと、繆澄流も張の公電に連署している。 事変解決後、張学良の東北軍は解体され、繆澄流も軍指揮権を喪失してしまう。1938年(民国27年)7月、江蘇省政府委員に任ぜられた。1940年(民国29年)5月、熱河省政府主席に任命されている。しかし熱河省政府は実態としては存在しておらず、正式に政府が組織されることなく繆は異動している。1941年(民国30年)、胡宗南の下で西北遊撃幹部訓練班教育長に任ぜられた。後に、中央訓練団団長となっている。 国共内戦で中国国民党が敗北すると、繆澄流もこれに従って台湾に逃れた。台湾では、仏教信仰の生活に入っている。 1990年(民国79年)12月11日、台北市にて病没。享年90。 参考文献
|