前田禎
前田 禎(まえだ ただし、1942年3月6日 - 2005年10月15日)は、鹿児島県出身の元騎手・元調教師。 経歴騎手時代
1958年に中山・岩佐宗五郎厩舎の騎手見習を務め[1]、1959年3月に同厩舎からデビュー。 同1日の東京第12競走5歳以上20万下・クモミドリで初騎乗初勝利[2] [3] [4]を挙げ、秋の東京では9月24日に初の1日2勝[5]、10月24日・25日には初の2日連続勝利[5]を挙げる。1年目の1959年には初の2桁勝利で20勝台となる24勝をマークするが、同年が自己最多となった[6]。 2年目の1960年には2年連続2桁で20勝[6]をマークするが、3年目の1961年には2月26日の東京第6競走障害特殊ハンデキャップ・トチヒカリ(7頭中6着)[7]を最後に一度騎手を辞めて岩佐厩舎の調教助手に転身。 1963年3月3日の東京第2競走4歳以上400万下・ホマレヒメ(12頭中11着)で騎手に復帰し[8]、7月27日の福島第2競走4歳以上30万下・セイザンで復帰後初勝利[9]を挙げる。 1964年には5年ぶりで復帰後初の2桁となる15勝をマークし、同年から1972年まで9年連続2桁勝利を記録[6]。 1965年から1967年には3年連続20勝台を記録し、1965年の中山大障害(秋)では10頭中8番人気の牝馬ミスハツクモでフジノオーの5連覇を阻止[10]して優勝[11]。1966年には東京障害特別(秋)で9頭中7番人気のニシノウチに騎乗し、フジノオーの全弟フジノチカラ[12]をアタマ差抑えて勝利[13]。 1967年には牝馬東京タイムズ杯で10頭中9番人気のクインレントゲンを2着に導き[14]、永田雅一所有で尾形藤吉厩舎のアドミラルで中山大障害(秋)3着[15]に入った。 1968年には障害入りしたクインレントゲンで東京障害特別(春)3着[14]、1969年の七夕賞では7頭中5番人気のヒシヤクシンでオークス馬ルピナスにハナ差3着[16]に入った。
1971年には4年ぶりで最後の20勝台となる22勝をマークし[6]、アラブ王冠(秋)ではタマレントゲンで2着[17]に入った。 1972年の11勝が最後の2桁[6]となり、二本柳俊夫厩舎に移籍した1973年にはツキサムホマレで中京記念で13頭中12番人気ながらナオキの5着、ダイヤモンドステークスでは12頭中10番人気ながらトーヨーアサヒ・クリイワイに次ぐ4着[18]、京王杯スプリングハンデキャップでも4着に入った[19]。 1974年には中尾銑治厩舎に移籍し、10月27日の福島で第1競走3歳未勝利・オーギタカラ、第2競走3歳未勝利・テツノサザンカと連勝し、後者が最後の勝利となった[20]。 1975年2月23日の中山第11競走5歳以上400万下・エリモシャープ(10頭中4着)を最後に現役を引退し[21]、同年には調教師免許を取得[1]。 調教師時代
引退後の1977年に開業し、1月30日の東京5競走4歳新馬・ダイシンスーパー(18頭中12着)で初出走を果たすと、5月14日の福島第9競走伏拝特別・リスティブで初勝利[1]を挙げる[22] [23]。 開業1年目の1977年は2勝、2年目の1978年は6勝、3年目の1979年には初の2桁勝利となる12勝をマーク[24]。
1980年には「その牝系を抜きにして日本のアラブ競馬史は語れない」と言わしめるほどの影響力を示したオーバーヤン五ノ七を母系に持ち[25]、カブトシローと同じ青森・十和田の佐々木悼牧場で生産されたホクトチハル[26]でアラブ大賞典(春)を制し、重賞初勝利を挙げる[1]。ホクトチハルは後に中野隆良厩舎に移籍し、同年の優駿賞最優秀アラブに選出[26]されている。 1981年にはアイノフィーバーで岡部幸雄騎乗のセイユウ記念、河内洋騎乗のシュンエイ記念で共に3着に入った[27]。 1983年にはスピーデイタイガーで七夕賞を制し、同年のダービー卿チャレンジトロフィーでは3着、明けて1984年の金杯ではドウカンヤシマの2着、続く東京新聞杯3着と重賞で好走[28]。 1979年から1981年まで3年連続、1985年から1989年まで5年連続で2桁勝利を記録し、1986年には開業後初の20勝台となる自己最多の24勝をマーク[24]。 1987年の七夕賞ではレイレナードがオークス馬トウカイローマンを抑えてダイナシュート・ダイナフェアリーに次ぐ3着[29]に入り、ビーバップが1990年のクイーンステークス、1991年と1992年の関屋記念で2着になった[30]。
1991年から1994年まで4年連続2桁勝利を記録し[24]、1993年にはマイスタージンガーで関屋記念・京成杯オータムハンデキャップを制し、毎日王冠・マイルチャンピオンシップにシンコウラブリイの4着に入った[31]。1994年の共同通信杯4歳ステークスではハヤテバラモンが最後方なら追い込み、ナリタブライアンの3着に入った[32]。 1998年にはミラクルタイムが毎日杯でディヴァインライト・ボールドエンペラー[33]、京都4歳特別ではメイショウオウドウを抑えて[34]勝利し、バプティスタが阪神4歳牝馬特別でロンドンブリッジ・エリモエクセルを抑えて3着[35]、秋華賞では13番人気ながらファレノプシス・エアデジャヴー・エガオヲミセテに次ぐは5着[36]に入り、同年には自身最後の20勝[24]をマーク。 1999年にはシェリフズスター産駒のセイウンエリアが日経賞でセイウンスカイの2着に入り、橋本広喜に乗り替わってからは福島記念10番人気4着、2000年には小倉大賞典を14番人気でジョービッグバンの5着、中京記念を10番人気でメイショウドトウの4着とローカル重賞の掲示板を確保[37]。
2003年には松岡正海が所属騎手としてデビューし、松岡にはスタートをしっかりしろ、といつも言っていたほか、技術面以外では「身を粉にして働け」と教えた[38]。 2005年9月10日の中山第10競走浦安特別・ジャズアップが中央での最後の勝利[39]となり、騎乗していた二本柳壮は通算200勝を達成[40]。 晩年は病気療養中であったが、2005年10月15日午後3時15分に死去。享年64歳[1]。 亡くなる5日前の10月10日に盛岡第8競走銀河賞・セイカモリオカで最後の勝利を挙げ、亡くなった15日に弟子の松岡が騎乗した東京第10競走神無月ステークス・ジャズアップ(16頭中7着)が最後の出走となった[41]。 管理馬は翌16日付で相沢郁厩舎へ転厩し[1]、松岡も相沢厩舎に移籍した。 騎手成績
調教師成績
脚注
関連項目 |
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