刺田比古神社
刺田比古神社(さすたひこじんじゃ)は、和歌山県和歌山市片岡町にある神社。式内社で、旧社格は県社。 「岡の宮」の通称があるほか、「吉宗公拾い親神社」を称する。 祭神主祭神は次の2柱[1]。 祭神について刺田比古神社は数々の兵乱により古文書・宝物等を失っているため、古来の祭神は明らかとなっていない。『紀伊続風土記』(江戸時代の紀伊国地誌)神社考定之部では刺国大神・大国主神とされており、明治に入って変更があったと見られている[2]。社名は古くから「九頭明神」とも称されたと言い、『紀伊続風土記』所収の「寛永記」や天正17年(1589年)の棟札に「国津大明神」、慶安3年(1650年)の石燈籠に「九頭大明神」、延宝6年(1678年)の棟札に「国津神社」ともある[2]。以上から、この「九頭」は「国主」の仮字であり、本来は地主の神とする見解がある[2]。神社側の考察では、祭神さえもわからないほど荒廃した刺田比古神社を氏子が再興した際、氏子が「国を守る神」の意で「国主神社」としたとして、また大国主命を祭神とする伝承も生まれたとしている[3]。 一方本居宣長による説では、刺田比古神を『古事記』の出雲神話における「刺国大神」と推定している[2]。刺国大神は『古事記』によると、大国主神を産んだ刺国若比売の父神で、大国主の外祖父にあたる神である。そして『紀伊続風土記』では、刺国若比売を「若浦(和歌浦)」の地名によるとし、大国主神が八十神による迫害で紀伊に至ったこととの関連を指摘している[2]。そのほか「さすたひこ」の音から、刺田比古神を猿田彦神や狭手彦神と見る説もある[2]。 「刺田比古」を記す資料としては唯一、『甲斐国一之宮 浅間神社誌』に収録される「古屋家家譜」が知られる[4]。「古屋家家譜」では道臣命の父を刺田比古命とし、道臣命については「生紀伊国名草郡片岡之地」と伝える[3]。この記載から刺田比古神社側では、本来は祖先神としてこの刺田比古命を祀ったものと推測している[3]。 「古屋家家譜」は1979年に初めて公開されたため広く知られていないが、研究者の評価は高い。田中卓は従来の大伴氏系図が「むしろこの家譜によって訂正、或いは補充される箇所が少なくない」[5]とし、溝口睦子も「古態を留めたきわめて資料的価値の高いものである」[6]と評価している。従来の大伴氏系図としては『続群書類従』掲載の「大伴氏系図」[7]が知られるが、大伴長徳の子を古麻呂とするなど誤りが多く、近年では「古屋家家譜」を採用するものが多く見られる[8]。 歴史創建社伝では、道臣命十世孫の大伴佐氐比古命が功により当地「岡の里」を授かり、命の後も代々治めたとする[9]。その後、二十世孫の大伴武持が当地に住むにあたってこの地に祖神を祀ったのが創祀といい、里人はそれを「国主ノ神」「大国主神」として祀ったという[9]。 刺田比古神社側では、境内にある「岡の里古墳」という古墳を大伴氏の墓と見るほか、『続日本紀』巻30にある「名草郡片岡里」から出た大伴部の記載[10]から、当地と大伴氏との関係の深さを指摘している[9]。 概史延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では紀伊国名草郡に「刺田比古神社」と記載され、式内社に列している。また、『紀伊国神名帳』には「従四位上(または従五位上) 刺田比古神」の記載がある。 由緒自体は、古文書等の焼失により不明な部分が多い。社伝によると、大伴武持二十八世孫の岡本武秀が初めて岡山城(現・和歌山市)を築くにあたって、神田を寄付し城の氏神として崇敬したという[9]。その後は、南北朝時代の争乱等で荒廃していた[9]。 『紀伊続風土記』によると、嘉吉年間(1441年-1443年)に氏子が再興したという。そして天正13年(1585年)には羽柴氏の入国によって社領が没収されたが、和歌山城代の桑山重晴が社殿を修復した[11]。豊臣秀吉は和歌山城を築く際にその鎮護の神として刺田比古神社を重要視したとされる[9]。 江戸時代には、徳川頼宣は和歌山城鎮護の神として神社を再興した[11]。また、徳川吉宗は刺田比古神社を産土神として崇め、正徳2年(1712年)に神田10石を寄進した[11]。文禄3年(1594年)には境内が現在地に移され[9]、元禄12年(1699年)に卜部兼敬によって式内社「刺田比古神社」に比定されている[2]。 享保14年(1729年)には名草郡田尻村200石が寄進された[12]。また国家安泰の祈願社とされ、年に1万度の国家安泰の祓を命ぜられたという[13]。寛永3年(1626年)から寛文13年(1673年)までは松生院が別当寺であった[11]。 明治に入り、明治6年(1873年)4月に近代社格制度において県社に列した[9]。その後、太平洋戦争の戦災により社殿・宝物・古記録を焼失している[9]。 神階
神職豊臣秀吉が和歌山城を築く際、大伴氏後裔の岡本左介を社司としたという[9]。また、桑山重晴による修造では、岡本家長が神官とされた[9]。 以後は岡本家が代々刺田比古神社の神官を務め、岡本長諄が徳川吉宗の仮親を務めたり、岡本長刻以後は代々3年に1度将軍に拝謁する等を経て、現在に至っている[9]。 境内社殿境内は昭和20年の戦災で焼失したため、のちに復興したものである。文化8年(1811年)の『紀伊国名所図会』には名所の冒頭に刺田比古神社が紹介され、当時の境内が描かれている。
岡の里古墳境内南西側の山の斜面にある古墳で、昭和7年(1932年)1月に発見された[14]。出土した土器の形状から6世紀頃と推測されており[15]、刺田比古神社や大伴氏との関係が指摘される[14]。なお、古墳は現在落砂によって埋没している。発見された古墳は1基のみであるが、古墳群の形式を取っている場合には未発見の古墳がある可能性がある[14]。
摂末社摂社
末社
祭事年間祭事一覧
文化財焼失した文化財
現地情報所在地 交通アクセス 脚注
参考資料
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