桑山重晴
桑山 重晴(くわやま しげはる)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。別名に重勝。大和国新庄藩桑山家の祖、和泉国谷川藩の初代藩主。官位は従五位下・修理大夫。千利休から茶道を学んだ茶人でもあった[1]。 生涯桑山氏は、鎌倉幕府の有力御家人・結城朝光の子孫で、尾張国海東郡桑山ノ庄を代々領したことからそれを姓と称した。 大永4年(1524年)、尾張国で生まれ[3]、桑山以則(修理大夫)または桑山定久の子という[4]。 初名を重勝といった[4]が、かなり長く重勝の名を使っており、天正10年(1582年)6月付の『妙法寺文書』に杉若無心との連署で、「桑山修理亮・重勝」とする花押が残っている[5]。 初めは織田信長の家臣・丹羽長秀(惟住長秀)の与力だったらしい[4]が、天正3年(1575年)の『竹生島文書』に羽柴秀吉の奉行衆としてト真斎信貞と重勝の連署が残っている[6]。長浜城時代の秀吉に仕えたとする系図もあるが[7]、近江国の羽柴家と丹羽家の所領は隣接しており、両属のようである。 天正10年(1582年)頃、重晴(重勝)の知行は1万石であり、秀吉の弟・羽柴秀長の配下に転じて但馬国竹田城主となった[8][7]。この竹田城で長男を亡くしている。 天正11年(1583年)2月、賤ヶ岳の戦いでは、重晴は山頂の賤ヶ岳砦を守った。佐久間盛政の攻撃に際して従属するような態度で在陣を続けて[4]、夜が明けると砦を放棄して山を降りてしまうが、結果的には秀吉の来援までの時間を稼いだことになった。重晴は丹羽長秀隊と合流して反撃に参加。4月27日、長秀はこれらを賞して、家臣の丹羽秀重、長束正家と共に、重晴にも加増を与えている[9]。 天正13年(1585年)、紀州征伐に参加し、重晴は自ら首級を上げる手柄があったので感状を受けた[7]。秀長の大和国への転封に伴い、紀州和歌山城主に転じて2万石を加増された[10]。 文禄4年(1595年)4月、秀長の養嗣子の豊臣秀保の死によって大和豊臣家が断絶すると、秀吉の直臣となった[10]。同年7月8日、豊臣秀次が謀反の疑いを釈明するために伏見城を訪れた際、伏見城大手門の守備を任された[7]。その功により、和泉国日根郡谷川に1万石を加増されて、計4万石となった[7][11]。この頃、剃髪して「治部卿法印」と称するようになった[11]。 果法院と号し、法名は宗栄[7]。 慶長元年(1596年)5月11日に修理大夫の官位を孫の一晴に譲り[11]、退隠する[10]。秀吉の御伽衆となる[10]。 慶長3年(1598年)、秀吉の死に際して遺物金15枚を受領[10]。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の役では、徳川家康は山岡道阿弥を派遣して7月29日付の書状を渡して[7]、西軍の大和郡山城の増田長盛の所領を与えると加増を約束[12][11]したので、重晴と一晴は東軍に属して、和歌山城を守った。 同年、重晴は隠居して一晴に和歌山2万石を継がしめ、次男の元晴に1万石を分知して、谷川1万石の領地のみを保持。一晴は4,000石を、元晴は2,000石を養老料として戻したので、和泉谷川1万6,000石(谷川藩)を領有することになった[11]。 戦後、徳川秀忠に家法の薬と帷子を献じたので返事の礼状をもらった[11]。 慶長11年(1606年)10月1日に死去した。享年83[2]。幕府は谷川の養老料のうち元晴に6,000石を分与し、孫の清晴に1万石を相続させて2代谷川藩主とした。 系譜脚注
参考文献
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