出隆
出 隆(いで たかし、1892年〈明治25年〉3月10日 - 1980年〈昭和55年〉3月9日) は、日本の哲学者。 概要岡山県苫田郡津山町(現津山市)で、渡部惟明(元鶴山高等小学校校長)の次男として生まれる。津山中学校在学中に叔父出道直の養子となる。第六高等学校を経て東京帝国大学卒業、大学院に入り、副手を嘱託される。1920年、日本大学および法政大学教授、1921年、東洋大学教授となる。同年刊行の『哲学以前』は哲学青年の愛読書となる。1924年、東京帝国大学助教授となり、1925年より二年間、英国、およびドイツに留学、1935年(昭和10年)、教授昇任、西洋哲学史を講じる。1937年(昭和12年)、文学博士。論文の題は「ギリシア人ノ霊魂観ト人間学 」[1]。 1948年(昭和23年)、日本共産党に入党。1951年には東大を辞職して東京都知事選挙に無所属で出馬し落選。1956年から日本哲学会委員長を1期務めた。1964年(昭和39年)日本共産党を除名される。 アリストテレスの研究で知られ、主著は『ギリシヤの哲学と政治』、『アリストテレス哲学入門』、『英国の曲線』、『詩人哲学者』、『アリストテレス全集』(監訳)など。『出隆著作集』全8巻がある。 門下生に東京大学名誉教授今道友信、一橋大学名誉教授岩崎允胤、読売新聞グループ本社代表取締役会長渡邉恒雄らがいる。同郷の随筆家内田百閒とも親交があり、その作品中に二山君の名(出のもじり)でしばしば登場している。 戦時中と戦後の言論1941年(昭和16年)1月号の『改造』誌に「阿呆陀羅経」という一文を寄せ、「万民翼賛とか臣道実践とかいうのは言葉や掛声だけで済まされる筈のものではない。それは口にするさえ畏れ多い事、吾々臣民が日夜砕励の誠を尽くしても、尚その万分の一さえ容易に践み行い得たとは云えない筈の事だ」と書き、1944年(昭和19年)の著書『詩人哲学者』序文では学生たちに向けて「諸君、美しく死んでくれたまえ」と書いている(戦後版では削除)。地域の隣組長を務め、そのことを1943年(昭和18年)3月の『改造』誌に「親孝行」という文章でつづっている。 第二次世界大戦後、1948年(昭和23年)4月、日本共産党に入党(当時は知識人が相次いで共産党に入党した時期であった)[2]。後に「ナチス・ドイツの世界観も八紘一宇の世界観なるものもなんだかいやだという「自由主義者」であったから、およそ思想統制的なものは―勅語にしても国定教科書にしても―すべて虫がすかなかった」(1955年10月号『読書と生活』誌掲載「弁証法的唯物論研究」)というのが共産党に入党した理由だと語っている。『進歩的文化人 学者先生戦前戦後言質集』には出について、つぎの副題が付けられている。
意気地のない見栄坊だとわかる、と安岡正篤は出隆を評している。 著書
共編著
翻訳
脚注
外部リンク |
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