出羽仙台街道出羽仙台街道(でわせんだいかいどう)は、江戸時代に陸奥国の最大都市である仙台藩・仙台城の城下町(現・宮城県仙台市。北緯38度15分36.9秒 東経140度52分14.5秒)と、西廻海運の起点である庄内藩の港町酒田湊(現・山形県酒田市。北緯38度54分51.9秒 東経139度50分11.4秒)とを結んだ街道のうち、奥羽両国を隔てる奥羽山脈を超える区間、すなわち、吉岡宿(宮城県黒川郡大和町吉岡。北緯38度26分44.3秒 東経140度53分6.4秒)から舟形宿(山形県最上郡舟形町。北緯38度41分31.5秒 東経140度19分14.6秒)までの区間の通称[1]。 現在では特に「出羽仙台街道中山越」として史跡指定されている県境の区間、すなわち、宮城県大崎市鳴子の尿前番所(北緯38度44分20.1秒 東経140度42分6秒 / 北緯38.738917度 東経140.70167度)から山形県最上郡最上町の笹森番所(北緯38度44分14.3秒 東経140度36分35.5秒 / 北緯38.737306度 東経140.609861度)までの区間 (4.2km) を指すことが多い。 概要陸奥国と出羽国を結んだ脇街道。標高1,000-2,000m前後の山々が連なる奥羽山脈を、標高350mの峠(堺田越)が結ぶ。仙台側では出羽海道[2]、新庄側では堺田越え[3]などの名称で呼ばれた。1815年(文化12年)には新庄藩が参勤交代に利用し、秋田藩にも利用されていた[4]。 戊辰戦争の戦後処理が行われた明治元年12月7日(西暦1869年1月19日)に、出羽国は羽前国と羽後国に分割された。明治の地誌には中山越と記される[5]。仙台と酒田を結んだ街道は現在、「北羽前街道」[6]、あるいは、「羽後街道」と呼ばれている。1990年(平成2年)、街道沿いの史跡群を国の史跡に指定するに当たって、「御勝手帳」「安永風土記御用書出」の記述を基に、指定名称を「出羽仙台街道中山越」としたことにより[7]名称が一般化した。すなわち、出羽仙台街道は、歴史的に広く使われていた名称ではない[8]。 酒田港から最上川を清水河岸(現大蔵村)で陸揚げされた上方物や松前物が、この街道を通って仙台城下に運ばれた[3]。 また、仙台・南部で生産された紅花は山形商人によって集荷され、1814年(文化11年)以降堺田越えまたは舟形口経由で清水河岸に出荷された[9]。仙台藩にとっては、奥州街道や陸前浜街道ほどではないにしろ、重要な街道であった。 出羽三山への参詣に向かう街道でもあり、かつては松尾芭蕉も通った。 現在、尿前番所と笹森番所の間の旧街道(4.2km)が、歴史街道として保存されており、往古の雰囲気が残されている。史跡「出羽仙台街道中山越」の指定範囲でもある[10]。 宿場・駅場
小国郷内には本陣の置かれた宿場はなかった。郷内を通るいくつかの村は脇街道の駅場に定められた。各駅場には、荷物あるいは通信物の継ぎ送りのために問屋等が定められていた。[3] 関所現在のルート脚注
関連項目
外部リンク
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