内藤就行
内藤 就行(ないとう なるゆき、1967年11月9日 - )は、奈良県奈良市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。JFA公認S級コーチライセンス保持者。 息子の内藤大翔[2] は奈良県の天理高校の選手として2021年の第93回選抜高等学校野球大会に出場している。 来歴帝塚山FC時代の第3回全日本少年サッカー大会で決勝大会を経験。大淀高校時代に全国選手権に出場。中京大学卒業後、1990年にJSL1部の本田技研に入団。 Jリーグ開幕に伴い1992年に鹿島アントラーズに移籍。フォワード(FW)として加入したが、同時期に鹿島に在籍していたアルシンド、黒崎比差支、長谷川祥之といったFW陣の中でレギュラーを獲得するには至らず、1995年に右サイドバック(SB)へコンバートされレギュラーポジションを掴んだ[3]。1996年には全試合に先発出場し鹿島初となるJリーグ年間優勝を支えた[3]。 1997年、当時日本代表レギュラーSBでもあった名良橋晃の移籍加入によって、SBからボランチへポジションを移したが[3]早々にプレーを身に付け、セカンドステージ及びチャンピオンシップ優勝に貢献。時には最終ラインでストッパーも務めるなど多様なポジションをこなすユーティリティプレイヤー、陰のMVPとして[4]活躍。元々FWだったこともあり、機を見たオーバーラップでチャンスを演出した。 2000年にFC東京に完全移籍。大熊清監督からは攻撃参加のタイミングやクロス精度だけでなく、常に全力プレーを心がけるプロ意識を評価されて信頼を掴み[4]、梅山修から右SBの定位置を奪取。年間を通してレギュラーとして活躍した。開幕から連勝し一時は首位に立つなどした東京旋風を支え、8月19日に行なわれた国立競技場での古巣・鹿島戦では同点に追いつく値千金の移籍後初ゴールを決めるなどチームのJ1定着に足跡を残した。FC東京はこの年J1初参加だったため多くのJ1経験者を補強していたが、その中でレギュラーを確保できたのはGK土肥洋一と内藤だけだった[5]。翌2001年も開幕から右SBとして先発起用されていたが、6月頃から小峯隆幸がSBに配されるようになり、出場機会を減らしていた。 2001年シーズン途中の8月、守備陣の人材不足に陥り成績低迷の最中にあったアビスパ福岡は、J2降格を阻止すべく内藤を完全移籍で獲得[6]。しかし最終節で降格が決定し、2002年は自身初となるJ2でのプレーとなった。若返りを図るクラブ方針により戦力外通告を受けたため、この年限りで福岡を退団。 2003年からは指導者の第一歩として九州リーグ・ヴォルカ鹿児島にて選手兼任でコーチを務めた[7]。同年をもって現役を引退。 2004年にサガン鳥栖のユース監督に就任[7]。2005年からはトップチームのコーチ(サテライトチーム監督兼任)として若手選手の育成を担当[7]。松本育夫・岸野靖之両監督の下3年間鳥栖の躍進を支えた。2008年にはJリーグで監督を務めることができるS級コーチライセンスを取得[7]。 2009年、J1初挑戦となるモンテディオ山形のトップチームコーチに就任した[8]。山形でも若手選手の指導に力を注ぎ、小林伸二監督を補佐。戦力差故の前評判の低さを覆し3年に渡ってJ1に残留、チームを強化した。小林の退任に併せ、山形との契約を満了[9]。 2012年にアルビレックス新潟ユースコーチ[10]、2013年に九州産業大学サッカー部のヘッドコーチを務めた[11][12]。 2016年、アンジュヴィオレ広島のヘッドコーチに就任[13]。同年4月には監督に昇格した[14] ものの、成績不振により9月に監督を解任された[15]。 2016年9月、香川県立高松商業高校のコーチに就任した[16]。 2017年4月、神戸国際大学サッカー部監督に就任。2018年よりブランデュー弘前FCの監督に就任した[17]。 2020年3月1日、ポルベニル飛鳥の監督に就任した[18]。 2021年、テゲバジャーロ宮崎の監督に就任した[19]。同年12月27日、宮崎の監督を退任して、アカデミー真摯コーディネーターに就任した[20]。 2022年2月25日、前任である村尾龍矢の退任に伴いU-18監督に就任。アカデミーコーディネーターと兼任で務める。 2023年12月15日、2023シーズンをもってU-18監督及びアカデミーコーディネーターを退任することが発表された[21]。 エピソード所属クラブ
個人成績
指導歴
監督成績
脚注
関連項目外部リンク
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