内丸 (盛岡市)
内丸(うちまる)とは、岩手県盛岡市の町名[5]。丁番は持たない単独町名である。住居表示実施済み区域[6]。旧岩手郡のち南岩手郡仁王村の一部、旧盛岡市仁王字内丸に相当する[7][8]。郵便番号は020-0023[2]。盛岡市の住民基本台帳によると2022年(令和4年)6月末時点での内丸の住民は190人、世帯数は127世帯である[1]。岩手県庁や盛岡市役所など、岩手県や盛岡市の主要機関、盛岡地方裁判所、岩手県警察本部、盛岡城址といった施設が所在し、昼間人口が多い官庁街としての役割を担う[5]。 地理内丸は盛岡市の西部に位置し、北で本町通と、東で紺屋町や中ノ橋町と、南東で肴町や下ノ橋町と、西で中央通や大沢川原と接する。 域内は、南部を盛岡城址やもりおか歴史文化館が占めており、北部をオフィス街が占め、中央部を飲食店が占めているため、住宅地は他地域と比べて少ない。 地形歴史古くは、内丸は石間(いしあい)と呼ばれた岩石地帯であり、建武年間に南部信長により征服され、現在も南部信長の重臣である福士慶喜の慶喜館跡が残っている[7]。 近代の頃の内丸は盛岡城の内堀北方に隣接する外郭の名称であり、現在の行政区域である内丸とは少し区域が異なり、元文城下図によれば、東は中津川を隔てて紺屋町や鍛冶町、川原本町に接し、西は外堀を隔てて日影門外小路に接し、北は本町や八日町に接していたとされる[9]。内丸はほぼ四方に堀と土手をめぐらせた要害の区画をなしており、東には中ノ橋門、北は大手御門、西は日影御門があり、それぞれの番所を通らなければ入らない地域であったがために町人地とは区切られていた[7]。また、藩主の南部家一門や600石以上の上級家臣の屋敷地であった[7][9]。 明治維新後の明治4年、盛岡藩は廃藩となり、盛岡城の外曲輪の土手・堀等の取り壊しを手始めとして、庶民の出入りが自由になり、内丸は官庁街や市街地として変貌した[7][10]。盛岡藩が廃藩となっても、岩手県域の自治の中枢であることにかわりはなく、広小路御殿跡に岩手県庁が設置された[10]。 沿革
名称の由来江戸時代に盛岡城の内堀と中堀の間に囲まれた区域を内丸と称したことに由来する[7][11]。 施設
交通内丸は官庁街であり、かつ、様々な企業の本社が立地するため、バス停数に対してバス路線が非常に多い[注 1][32]。 鉄道域内に鉄道は通っておらず、鉄道駅は存在しないが、最寄駅は盛岡駅(JR・IGRいわて銀河鉄道)や上盛岡駅(JR山田線)などが挙げられる。 道路バス
統計人口盛岡市の住民基本台帳によると2022年(令和4年)6月末時点での内丸の人口および世帯数の統計は以下の通りである[1]。
教育域内に学校は存在せず、生徒たちは小学校、中学校、高等学校のいずれに通うのに、内丸を出なければならない。小学校は、肴町に所在する盛岡市立杜陵小学校もしくは本町通に所在する盛岡市立仁王小学校、中学校は馬場町に所在する盛岡市立下橋中学校が学区となっている[38][39][40][41]。 脚注注釈
出典
参考文献
関連項目
外部リンク
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