六道珍皇寺
六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ、ろくどうちんこうじ)は、京都市東山区小松町にある臨済宗建仁寺派の寺院。山号は大椿山。本尊は薬師如来。8月7日 - 10日の「六道詣り」、小野篁が冥界に通ったと伝わる井戸で知られる。通称「六道さん」。この付近が「六道の辻」であるとされる。 歴史この寺の所在地付近は、平安京の火葬地であった鳥部野(鳥辺野)の入口にあたり、現世と他界の境にあたると考えられ、「六道の辻」と呼ばれた。「六道の辻」は五条通(現・松原通)沿いの六道珍皇寺門前やその西方の西福寺付近とされている[1]。 創建は延暦年間(782年 - 805年)とされ、開山は奈良の大安寺の住持で空海の師にあたる慶俊とされる。異説として空海(「叡山記録」ほか)や小野篁(『伊呂波字類抄』『今昔物語集』)[2]などとする説の他、かつてこの地に住した豪族鳥部氏の氏寺(鳥部寺、宝皇寺)がその前身であるともいう[3]。さらに東寺百合文書の「山城国珍皇寺領坪付案」という文書(長保4年(1002年))には、珍皇寺は承和3年(836年)に山代淡海が創建したとある[4]。 藤原道長の日記『御堂関白記』長保6年3月12日(1004年4月4日)条にある「珎光寺」は珍皇寺を指すとみなされる。近世の地誌類には「珍篁寺」と書かれることもあり、寺号は本来「ちんのうじ」ではなく「ちんこうじ」と読まれていたと考えられている[4]。珍皇寺には念仏寺、愛宕寺(おたぎでら)などの別称もあり、『伊呂波字類抄』『山城名跡巡行志』は、珍皇寺の別名を愛宕寺とするが、愛宕寺が珍皇寺と念仏寺に分かれたともいう[5]。東山区松原通大和大路東入る弓矢町(珍皇寺の西方)には念仏寺という寺があったが、大正時代に右京区嵯峨鳥居本に移転した(愛宕念仏寺の項を参照)。 鎌倉時代までは真言宗・東寺の末寺として多くの寺領と伽藍を有したが荒廃し、貞治3年(1364年)に建仁寺から聞溪良聰が入寺して再興、この際に臨済宗に改められた[2]。南北朝時代以降、寺領の多くが建仁寺の所有に転じたことと戦乱により衰退し[6]、中世後期の寺史はあきらかではない。 明治に入り一時建仁寺に併合された時期もあったが、1910年(明治43年)に独立した。 境内
文化財重要文化財
京都府指定歴史資料
寺宝六道詣り六道まいり(六道さん)盂蘭盆に先立って8月の7日から10日に行なわれる祖先崇拝の宗教行事のことである。普段静かな六道珍皇寺は、六道詣りの日に限って境内から門前に至るまで、高野槇・愛宕の樒・伊勢朝熊の黄楊(柘植)・蓮・麻幹(苧殻)・溝萩・早稲・駒繋などを売る花屋の露店が立ち並ぶ。 また、前の松原通にある仏具神具店の店先には、蝋燭・蝋燭立・盆灯籠・花立・香・香炉・珠数・経本・鈴・木魚・過去帳・麻幹箸・新仏用の小さい苧殻梯子・霊膳と呼ばれる小型の白木の膳他の小物仏具など等が蔵浚で並ぶ。 参拝者は、本堂や経書堂で経木に亡き人の戒名か俗名を僧侶等に書いてもらい、本堂前にある白煙の濛々と立ちこめた香炉に向かい、線香を上げたあと、その煙を経木にまぶし、手で煙を呼びこんで身体にも振りかける。 そして経木は、境内西側の石地蔵の前に供えた水槽に浸し、または柄杓か高野槇で水をかけて水回向をする。 それから、十万億土の地の果てまで響き渡ると伝えられる「迎え鐘」を撞きながら故人の名を胸中に念じ、お精霊さんを冥界から呼び寄せる。そして、門前や境内で売られる高野槇を家に持ち帰ると、冥界で鐘の音を聞きつけたお精霊さんは、この高野槇の穂先を伝って帰ってくるといわれている[13]。 拝観境内は年中時間中なら拝観できる。5名以上のグループは事前予約制で堂内のみ有料で拝観できる。特別拝観時は予約なしで堂内に加えて、庭に降りて「冥土通いの井戸」「黄泉がえりの井戸」を拝観できる。拝観日はおおよそ月に1回ほどあるが日程は公式HPなどで確認のこと。 所在地・交通アクセス周辺脚注出典
参考文献
関連項目
外部リンク |
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