『八月の狂詩曲』(はちがつのラプソディー)は、1991年(平成3年)5月25日公開の日本映画である。黒澤プロダクション・フィーチャーフィルムエンタープライズ製作、松竹配給。監督・脚本は黒澤明。カラー、ビスタビジョン、98分。
村田喜代子の芥川賞受賞小説 『鍋の中』が原作で、原爆体験をした長崎の祖母と4人の孫たちのひと夏の交流を描く映画。キャッチ・コピーは「なんだかおかしな夏でした…。」。第65回キネマ旬報ベスト・テン第3位。
ストーリー
ある夏休み。長崎市街から少し離れた山村に住む老女・鉦のもとに1通のエアメールが届く。ハワイで農園を営む鉦の兄・錫二郎が不治の病にかかり、死ぬ前に鉦に会いたいという内容で、鉦の代わりに息子の忠雄と娘の良江がハワイへ飛んだ。そのため4人の孫が鉦のもとにやって来た。ハワイから忠雄の手紙が届き、錫二郎が妹に会いたがっているため、孫と一緒にハワイに来てほしいと伝えてくるが、鉦は錫二郎が思い出せないとハワイ行きを拒む。都会の生活に慣れた孫たちは田舎の生活に退屈を覚えていたが、原爆ゆかりの場所を見て回ったり、祖母の原爆体験の話を聞くうちに、原爆で祖父を亡くした鉦の気持ちを次第に理解していった。
やがてハワイ行きの決断を促す手紙が届き、鉦は原爆忌が終わってから行くことを決意し電報を出す。それとすれ違いに忠雄と良江が帰ってくる。手紙に原爆のことが書かれていたのを知った2人は、アメリカ人に原爆の話をしたらまずいと落胆する。そこへ錫二郎の息子のクラークが来日する。空港に出迎えた忠雄も孫たちもその意図を理解できず、孫たちは心配からか空港を逃げ出す。しかしクラークは「ワタシタチ、オジサンノコトシッテ、ミンナナキマシタ」と語り、おじさんが亡くなったところへ行きたいと頼む。その夜、庭の縁台でクラークは鉦に、おじさんのことを知らなくて「スミマセンデシタ」と謝る。鉦は「よかとですよ」と答え、2人は固い握手を交わす。
8月9日、鉦は念仏堂で近所の老人たちと読経をあげていた。クラークは父の死去を伝える電報を受け取り、急遽帰国する。鉦はやっと錫二郎を思い出し、その死を悲しんだ。それから鉦の様子がおかしくなり、忠雄を錫二郎と間違えたり、雷雨の夜に突然「ピカが来た」と叫ぶ。翌日、キノコ雲のような雷雲が空に広がり、鉦は長崎の方へ駆け出して行く。豪雨となり、孫たちや息子たちは祖母を追いかける。そこにシューベルトの「野ばら」の合唱が流れる。
キャスト
スタッフ
挿入歌
エピソード
- おばあちゃんの家は長崎県の山中の設定であるが、長崎県で適当な場所が見つからなかったために、埼玉県内にロケーションセットを建てて撮影は行われた[2]。念仏堂は撮影終了後に、リチャード・ギアの希望により彼のアメリカの別荘へ移築された。これは、ハリウッド俳優としては破格の安い出演料で出演してくれたギアに対する埋め合わせの意味もあったという。ギアはおばあちゃんの家も欲しがったが、さすがに大変なのであきらめてもらったという。
- クラーク役には当初、ジーン・ハックマンが予定されていた。これは脚本を読んだハックマン本人の熱望を受けてのものであった(年齢がクラーク役としては高いため、当初は黒澤が難色を示していた)。ただし、健康上の理由から撮影前に降板している。
- この映画の撮影時にはなかった平和公園のアメリカからの慰霊碑は、1992年(平成4年)10月にアメリカのセントポール市から寄贈されている。この慰霊碑への寄付を募るために「八月の狂詩曲」上映会がセントポール市で開催された。また、本島等長崎市長からこの件に関して黒澤監督へ礼状が送られてきた。
- 誤解されることも少なくないが、クラークが「すみませんでした」「私達悪かった」と鉦おばあちゃんに謝っている場面は、アメリカ人であるクラークが原爆投下を「すみませんでした」「悪かった」と謝罪しているわけではない。「私達」とは、「鉦の兄であるハワイに移民した錫二郎やクラークらの一家」のことであり、「すみませんでした」は「鉦おばあちゃんの夫が被爆死したことを知らなかった」ことに対してであり、「悪かった」のは鉦おばあちゃんが「長崎の人」なのに、夫の死因に思いが至らなかったことである[3]。
- 蟻の行列を撮影するための待ち時間が余りにも長かったことから、撮影終了後にリチャード・ギアは「もうアリとは共演しない」と言い残して帰国した。ちなみに、この場面は黒澤の書いた当初の脚本では、蟻の行列を見ているのは信次郎だけであった。それをクラークと信次郎の2人にしたのは、脚本を読んだギアの提案を黒澤が取り入れたものである。なお、ギアが出演した群馬ロケでは、クラークが視線を下げて蟻が地面に行列を作る部分までしか撮影できず、蟻がバラの木を上っていく場面は、京都の下鴨神社で演出補佐の本多猪四郎率いるB班でロケ撮影したものである。また、蟻の行列を作るために、京都工芸繊維大学繊維学部教授の山岡亮平が「蟻指導」として参加している。
- 黒澤作品は雨のシーンが印象的とされるが、唯一ラストシーンが雨の作品である。
- 原作者の村田喜代子は、この映画の出来には不満で、「ラストで許そう黒澤明」という一文を『別冊文藝春秋』1991年夏号に寄稿した。
受賞
脚注
- ^ 「1991年邦画作品配給収入」『キネマ旬報』1992年(平成4年)2月下旬号、キネマ旬報社、1992年、144頁。
- ^ 「黒澤明夢のあしあと」共同通信社、1999年、314頁。
- ^ かつてはRhapsody in August - Wikipedia英語版にも同趣旨の記述があったが現在は削除されており、本作品に批判的な批評のみが記述されている。
外部リンク
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