光市立図書館
光市立図書館(ひかりしりつとしょかん)は、山口県光市に所在する公共図書館。旧光市、旧光市立図書館の本館と旧熊毛郡大和町、旧大和町立大和図書館の大和分室から成る。 1862年(文久2年)難波蕈庵が私塾養義場を開設し、同時期に立野村宮河内に私立図書館の向山文庫を設けた事が当館の起源とされている。向山文庫は光市市指定史跡に指定されている。[3] 光市や山口県の郷土資料なども揃えられており、ビデオやDVD、CD等を館内で視聴することができる。 山口県立図書館と連携しており、山口県内及び日本国内の図書館で相互貸借が可能となっている。 沿革(合併後・両館共通項目)[1]
合併前の沿革及び合併後の各館の個別の沿革は、各館の節を参照。 利用について
光市立図書館
光市役所の向かいにあり、光市文化センターが隣設している。隣に聖光高等学校が立地しており、桜の開花時期には同校に植えられている桜の景色を堪能出来る。
開館時間・休館日
アクセス向山文庫[3]
先述の通り、光市立図書館の起源とされている私立図書館。 江戸時代この立野村は、長州藩寄組清水家代々の一郷一村知行地で、その次席家老職にあった難波周政(かねまさ)(覃庵)は領地内に私塾養義場や慕義会などを設立し、郷土子弟の教育に努めた。 しかし、1864年(元治元年)に起こった禁門の変の責任で、藩は俗論派政府の主張で福原・国司・益田の三家老に切腹を命じた。また、この事件に関与したとみなされ、立野村で蟄居していた家老の清水親知も萩表に呼び出され、切腹させられた。 その後、難波周政(覃庵)は清水家に伝わる書物に自家所蔵の書籍を加え閲覧公開をするため、1883年(明治16年)には新たに2階の建物を建て、清水親知の法名「仁沢院殿向山義雄」に因んで『向山文庫』と名付けた。文庫の文字は三条実美の書で、下方の「仰高」の額は 長州藩主毛利元徳の筆である。 立野の島田川支流、束荷川沿いに旧難波家があり、その邸内に「向山文庫」の額がかかった土蔵がある。近くには創設者の難波覃庵(たんあん)翁(1811年~1888年)の顕彰碑が建てられている。 広さは23.19m2あり、文庫内の中央正面には祭壇を設け、孔子と親知の木像を安置した。1908年(明治41年)には一般への開放と同時に、山口県立図書館の巡回文庫を借り受け、利用に供するなど積極的な動きも見られたが、年々活動が停滞し荒廃がひどく文庫を閉じた。 閉鎖後は書籍の一部を県立図書館へ依託したが、山口県文書館が設立されたため、その書籍は文書館に移動し、さらに1971年(昭和55年)に光市文化センターに寄託された。 向山文庫と虎ノ門事件→詳細は「虎ノ門事件」を参照
虎ノ門事件を起こした難波大助は向山文庫を設立した名家・難波家に生まれた。[7] 難波の父・作之進は、庚申倶楽部所属の衆議院議員であった。母は難波ロク[7]。四男であった。 徳山中学(山口県立徳山高等学校の前身)時代は、父の影響を強く受けた皇室中心主義者であり、『大阪朝日新聞』の非買運動を行うなどしていた。しかし、中学5年生の時、田中義一陸軍大臣が山口に帰省した際、強制的に沿道に整列させられたことに憤慨し、思想的な変化が芽生えた。この思想変化が後の虎ノ門事件を起こす動機となる。鴻城中学でも学ぶが、後に中退[7]。 1923年(大正12年)12月27日、難波は東京・虎ノ門(現・東京都港区虎ノ門)で皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)を近接狙撃するが失敗に終わる。難波は「革命万歳」と叫び逃走を図るも、激昂した周囲の群衆の暴行を受け、警備の警官に取り押さえられ、現行犯で逮捕された。 難波の出身地であった山口県の知事に対して2ヶ月間の2割減俸、途中難波が立ち寄ったとされる京都府の知事は譴責処分となった。また、難波の郷里の全ての村々は正月行事を取り止め謹慎し、難波が卒業した小学校の校長と担任は教育責任を取り辞職した。 難波大助の父で衆議院議員の難波作之進(庚申倶楽部所属)は事件の報を受けるや直ちに辞表を提出し、閉門の様式に従って自宅の門を青竹で結び家の一室に蟄居し、食事も充分に摂らなかった。作之進は1925年(大正14年)5月に死亡した[8]。大助の長兄(正太郎)は勤めていた鉱業会社を退職し、家族以下蟄居生活を続けた[8]。 この事件の影響で、難波家は所謂村八分状態になり、向山文庫が荒廃するきっかけになったという諸説がある。 光市立図書館 大和分室(あじさい文庫)
光市役所大和支所敷地内にあり、同支所に隣接している。「あじさい文庫」という愛称は、合併前の大和町の町花がアジサイによる事から。 沿革[1]
開館時間・休館日
アクセス脚注
関連項目外部リンク
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