儀間真常儀間 真常(ぎま しんじょう、嘉靖36年(1557年) - 順治元年10月14日(1644年11月13日))は、第二尚氏王統琉球王国の士族、殖産家。唐名は麻 平衡(ま へいこう)[1]、童名は真市。 サツマイモを広めたり、木綿栽培・織物の普及や製糖技術の導入をはかったりするなどして、琉球王国の産業基礎を築き、経済を振興した[2]。 後世、伊波普猷と真境名安興により「琉球の五偉人」の一人に数えられる。 概要1557年、垣花の儀間村で首里王府の役人であった儀間真命の三男として生まれた[1]。大城按司真武(麻普蔚)の後裔にあたり、麻氏大宗家の6世である。 1605年に野国総管が中国から持ち帰ったサツマイモを琉球各地に広めたほか、薩摩藩から木綿種を持ち帰り、その栽培と木綿織りを始めさせ、琉球絣の基礎を築き、砂糖(ただし当時の砂糖は黒砂糖を意味する)の製法を広めたことなどが業績に挙げられる。中でも砂糖は、その後の琉球の経済を支える重要産物となり、蕃薯はのちに薩摩藩を経て日本全国へと広がり、「サツマイモ」の名称で知られるようになった。 また、浄土宗の僧である袋中が琉球に辿り着いた際には、尚寧王に引き合わせ、尚寧王とともに袋中に帰依した[1]。 墓所は那覇市住吉町にあったが、第二次大戦後に米軍の港湾施設として接収された[1]。1959年(昭和34年)に那覇市首里崎山町の首里カトリック教会の南側にある移設された(墓碑は1993年に建て替えられた)[1]。墓の左側に「儀間真常之墓表」の碑、右側に「糖業顕彰碑」がある[1]。また、産業の恩人を祀った世持神社(那覇市奥武山町)では、蔡温や野国総管とともに祀られている。 系譜儀間親雲上真命(麻時嘗)の三男として生まれる(母は真鍋)。室に毛氏阿波根子盛懿の娘:真鍋を迎え、1男1女をもうけた。嫡男が真常より先立って逝去したため、嫡孫の儀間親雲上真時(麻作愿)が跡を継いだ。
経歴(月日は旧暦)
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