保永昇男
保永 昇男(ほなが のりお、1955年8月11日 - )は、日本の元プロレスラー、男性レフェリー。東京都足立区出身。拓殖大学北海道短期大学卒業。リキプロ所属。血液型O型。 現役時代はえり足を伸ばし、刈り込みの入った金髪のパンチパーマがトレードマーク。現役時はスポットライトの当たる選手では無かったが、独自のプロレス感と対戦相手を引き立てる技術で試合を作り上げる職人レスラーであった。 経歴新日本プロレス時代足立学園高校柔道部出身、拓殖大学北海道短期大学卒業後、東京へ戻り全日本プロレスの入門テストを受けるも不合格となる。植木屋に勤めながらボディビルで体を鍛え、1979年4月に新日本プロレスへ入門。1980年4月25日に後楽園ホールの斎藤弘幸戦でプロデビュー。 1982年11月にメキシコ武者修行に旅立ち、ヒロ斎藤、平田淳二らと行動を共にする。 1984年3月に帰国。しかしメキシコで体調を崩し、さらには高田ら後輩の台頭もあり低迷。 ジャパンプロレス時代1984年9月、ジャパンプロレスへ合流して長州力らと全日本プロレスに参戦。 1985年当時アジアタッグ王座を保有していたアニマル浜口が負傷欠場したため、寺西勇が代理パートナーとして保永を指名しアジアタッグ王者となる。10月14日、石川敬士&渕正信組を破り初防衛に成功したが、10月31日、石川敬士&マイティ井上組に敗れ王座転落。 ジャパンプロレス崩壊後ジャパンプロレス崩壊後は新日本プロレスに出戻り、頭髪を金色に染めてヒロ斎藤・後藤達俊と共にブロンド・アウトローズを結成。後にスーパー・ストロング・マシーンを加えレイジング・スタッフと名を改める。保永自身はジュニアヘビー級のヒール選手としてライバルの獣神サンダー・ライガーらと激闘を繰り広げ、1991年にBEST OF THE SUPER Jr.の前身であるTOP OF THE SUPER Jr.でライガーを破り優勝[1]。IWGPジュニアヘビー級王座決定戦を兼ねており同王座に初戴冠。5月25日、ペガサス・キッドを相手に初防衛に成功。5月31日、ライガーを相手に2度目の防衛に成功するも、6月12日のリターン・マッチに敗れ王座転落。11月5日、野上彰を破り、IWGPジュニアヘビー級王座に返り咲く。 1992年2月8日、ライガーに敗れ王座転落。 1994年9月27日、ワイルド・ペガサスを破り、3度目の王座獲得。6度の防衛を重ねる長期政権を築き、さらに11月18日エル・イホ・デル・サントを破りUWA世界ウェルター級王座を獲得するなど、ライガーの負傷欠場や金本浩二、大谷晋二郎ら若手の台頭までの空白期の穴を埋めた。12月13日大谷に敗れUWA世界ウェルター級王座から転落。 1995年2月19日、金本に敗れIWGPジュニアヘビー級王座からも転落、さらに9月22日、試合中に右足のアキレス腱を断裂し長期欠場。 1996年5月23日、小山ゆうえんち大会で復帰。この頃から金髪も黒髪に戻し、かつてのライバルであるライガーやエル・サムライらと共闘し、金本、大谷、高岩ら若手の壁となって試合を行うことが増える。ライガー&サムライ&保永組vs金本&大谷&高岩組の6人タッグマッチにおいて、主に金本から執拗に攻撃を受けたサムライが激昂し、場外でも金本を追いかけ回すなど、試合が成立しなくなったことがあったがその際もヒートアップするサムライ、金本、大谷、高岩とそれを自身も激昂しながら止めようとするライガーを尻目に、保永は「止めろサムライ、止めろ」と一人冷静であったりと、ヒールともベビーフェイスともとれない立場となっていく。 1998年4月30日、後楽園ホール大会で引退試合を行う。ライガーと対戦し敗れるも、ライガー戦直後に番外試合として6人タッグマッチを行い高岩竜一から勝利を飾る。 引退後引退後はレフェリーへ転向。レフェリーとしてのデビューは1998年5月16日、松戸市運動公園体育館で行われた中西学&小島聡組vs平田淳嗣&安田忠夫組戦。過去にパキスタンなどの海外遠征時には現役選手でありながら、レフェリーを務めた経験もある。当初はぎこちないレフェリングで観客から声が上がったり元レスラーであるにもかかわらず、試合中レスラーと衝突しただけでしばらく倒れているなどの場面が見受けられたが、元レスラーであることを活かし、相手選手がロープブレイクをしているのに腕ひしぎ逆十字固めを放そうとしないケンドー・カ・シンに対しストンピングを連発して“保永コール”を巻き起こすなど、レフェリー保永昇男としてのエピソードを残す。 以降はジュニア戦線を中心にレフェリーを行い2003年、WJプロレスに移籍。WJの惨状を見かねて佐々木健介に助言し、佐々木のWJ離脱・フリー転出にも関与したとされる。 2004年、WJ崩壊と共にリキプロへと移籍。レフェリーのほか「あの人ほど怒らせたら怖い人はいなかった。喧嘩したくない相手だよね」「普段は良き相談役だがプロレスに対する目は非常に厳しい。よくしょっぱい試合をした若手が試合後に殴られていたんだよ」と、かつての盟友である後藤達俊が自身のブログで語っているように、現在でも若手選手のコーチや相談役としてその手腕をいかんなく発揮している。 リキプロの新日本プロレス合流後もレフェリーおよび道場管理者として残留。LOCK UPで裁いた。久が原道場閉鎖時は原状回復費用軽減のため、自らシャッターのペンキ塗りをするなど最後まで若手らと共に尽くした。 2012年2月19日、「SMASH.25」で特別レフェリー[2]。 2016年12月2日、大阪城東区民センターで行われる上井文彦プロデュース興行「Strong Style History~Go for Broke!! Forever~」でメインイベントを含む3試合のレフェリーをこなす[3]。 2020年1月4日、新日本プロレス・東京ドーム大会での獣神サンダーライガー引退試合第1弾のタッグマッチで、特別レフェリーを担当。 2022年3月1日、新日本プロレス・武道館による旗揚げ記念日大会でGBH vs LIJの特別レフェリーを担当。[4] タイトル歴
得意技感情を表に出さずに、掴み所のない独特のファイトスタイルは「のらりくらり殺法」と形容された。反則技から一瞬の隙をついた丸め込み、スープレックス、ルチャスタイルまでこなす職人タイプ。
入場テーマ曲
脚注
外部リンク |
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