佐束村
佐束村(さづかむら[† 1]、英語: Sazuka Village)は、日本にかつて存在した村である。静岡県小笠郡に属した。 概要明治政府が推進した明治の大合併にともない、1889年(明治22年)に静岡県城東郡にて高瀬村、小貫村、中方村の3村が合併し、佐束村が設置された。のちに城東郡が佐野郡と合併して小笠郡が新設され、佐束村も小笠郡に属することになった。それから50年ほどは村の領域に変化はなかったが、太平洋戦争さなかの1943年(昭和18年)4月1日に小笠郡岩滑村と合併し、新制佐束村が設置された。戦後の昭和の大合併にともない、1955年(昭和30年)1月1日に佐束村は小笠郡土方村と合併し、城東村が新設された。 地理地勢静岡県の西に位置していた。北に佐束山が位置し、佐束川が南北に縦断していた。全域が現在の静岡県掛川市に含まれる。岩滑村と合併する前の旧佐束村だけで6.00平方キロメートルに達しており[1]、これに1.73平方キロメートルの岩滑村が加わったため[1]、最終的な村域は単純計算で7.73平方キロメートルに及ぶ。 佐束山からの眺めがよく[1]、かつては桜の名所としても知られていた[1]。1934年(昭和9年)に発行された『新撰鄕土史体系』には「佐束山は高天神山と共に眺望最も良く、櫻數千本春陽に笑ひ」[1]と描写されている。また、かつては村内に大きなボダイジュが一本生えており「菩堤樹根廻り數尋にして、東海道一、否全國中一二の名木ならん」[1][† 2]と謳われていた。 隣接していた自治体地名村の名称由来村名の「佐束」は、かつて存在した「狭束郷」に由来する。奈良時代の文献に「狭束郷」の使用例が見られ、それによれば遠江国城飼郡に属していた11の郷の一つとされていた[3]。「佐束」および「狭束」のいずれの表記も「谷間の流水を集め束ねて流す」[3]という意が込められているとされ、高瀬や小貫の佐谷から流れ出た渓流が、中方で束ねられていく様を表している[3]。 現在の使用状況2005年(平成17年)の掛川市新設にともない、旧佐束村の領域は全て掛川市に含まれている。掛川市の住所表記では「佐束」の語は用いられていないが、現在でも「佐束」といえば旧佐束村一帯を指す語として使用されている。佐束山、佐束川などの地名や、掛川市立佐束小学校、掛川市立佐束幼稚園などの公共施設の名称としても、そのまま残っている。また、薬局など店舗の名称として使用されたり、「佐束」の名を冠した菓子も発売されたりと、民生用に使用されることも多い。 派生語
村内の地名地名の変遷
歴史沿革
変遷
行政岩滑村と合併前の旧佐束村は高瀬、小貫、中方の3つの大字で構成されており[1]、佐束村役場は高瀬に設置されていた[1]。1943年(昭和18年)の岩滑村との合併により、岩滑村の村域がそのまま岩滑という大字として加わったため、以降は4つの大字で構成されることになった。1934年(昭和9年)に発行された『新撰鄕土史体系』によれば、岩滑村と合併前の旧佐束村においては、原川孫九郞[1]、尾澤平四郞[1]、石川良平[1]、藤田千五郞[1]、石川良平[1]、角替桂太郞[1]、岡田又次郞[1]、山下武六[1]、石川良平[1]、尾澤富平[1]、の順で村長に就任したとされる。 経済産業佐束村の主要産業は農業や林業を中心とした第一次産業と、工業を中心とした第二次産業であった。岩滑村と合併前の旧佐束村では、米[1]、麦[1]、養蚕の繭[1]、鶏卵[1]、藁工品[1]、日本酒[1]、などが主産品として知られていた[1]。また、主産品として茶も重要視されており、佐束村立佐束小学校の校章にはチャノキの花と葉があしらわれるほどであった。 1934年(昭和9年)に発行された『新撰鄕土史体系』によれば、岩滑村と合併前の旧佐束村での生産価額は、農産が19万円[1]、畜産が3万5000円[1]、林産が5000円[1]、工産が4万2000円[1]、などとなっており、旧佐束村の総価額は27万4000円に達するとされている[1]。岩滑村においては、農産は4万7000円[1]、畜産は1万1000円[1]、工産は5800円[1]、などとなっており、岩滑村の総価額は約6万5000円ほどであった[1]。 日本酒を醸造し品評会で入賞を繰り返した土井酒造場や、ソケットレンチで高いシェアを占める山下工業研究所など、著名な企業の創業の地としても知られている。現在でも、両社はかつての佐束村の村域に本社を設置している。1892年(明治25年)11月5日には近代的な金融機関として佐束銀行が設立された[6]。1934年(昭和9年)に発行された『新撰鄕土史体系』には「株式會社佐束銀行、鈴木運輸自動車合資會社、石川組製材場、土井酒造場等官衙學校會社多數に存し」[1]と描写されている。なお、城東村になって以降も、かつての佐束村の村域に菊川照明の本社が設立されるなど、さまざまな産業が興っている。 主な企業教育1934年(昭和9年)に発行された『新撰鄕土史体系』によれば、岩滑村と合併前の旧佐束村の学校について「尋高校一、農補校一」[1]とされ「官衙學校會社多數に存し」[1]と描写されている。この「尋高校一」[1]とは尋常高等小学校が1校設置されていることを指しており、のちの佐束村立佐束小学校の源流となっている。一方、岩滑村については「尋常小學校が一校設置されてゐる」[1]と描写されている。この尋常小学校は、のちの佐束村岩滑国民学校の源流となったが、こちらは閉校となっている。 神社仏閣村内には多数の神社が鎮座しており、人々の信仰を集めていた。村社としては、春日神社[1][7]、二宮神社[1][7]、八幡神社[7]、の3社が鎮座していた。無格社としては、白山神社[1][8]、猿田彦神社[1][8]、などが知られている。また、村内には多数の寺院や堂宇も創建され、人々の信仰を集めていた。八相寺[1]、宗禅寺[1]、意正院[1][9]、弘法堂[1]、浮島堂[1]、地蔵堂[1]、などが知られている。 交通村内に鉄道は敷設されておらず、駅も設置されていない。しかし、東海道本線の掛川駅や堀ノ内駅に向かう路線バスが走っており、当時としては「交通の便比較的良い」[1]とされている。 名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事出身の人物
脚注註釈出典
関連項目外部リンク
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