竹内薰兵
竹內 薰兵(たけうち くんぺい、1883年〈明治16年〉11月12日 - 1973年〈昭和48年〉3月21日)は、日本の医師、医学者(小児科学)、歌人。勲等は勲四等。学位は医学博士(京都帝国大学・1923年)。日本児童学会名誉会長、社団法人日本小児科学会名誉会員。旧姓は鈴木(すずき)。号は青夏(せいか)。姓の「內」は「内」の旧字体でありJIS X 0213:2004に収録されておらず、名の「薰」は「薫」の旧字体でありJIS X 0208に収録されていないことから、新字体で竹内 薰兵(たけうち くんぺい)、竹內 薫兵(たけうち くんぺい)、竹内 薫兵(たけうち くんぺい)とも表記される。 京都帝国大学での勤務を経て、竹内病院院長、東洋大学教授などを歴任した。 概要静岡県出身の医師であり[1][2][3]、医学者としても活動した[1][2]。京都帝国大学に入局し[2]、小児科学を専門とする[1][2]。日本の小児科における重鎮であり[1]、業界団体である日本医師会の理事や[2][3]、東京都医師会の副会長などを歴任した[2]。『小児病の予防学』や『小児科誤診学――誤診を避けるために』といった著作でも知られた[2][3][4]。日本の一般家庭に牛乳を浸透させた立役者としても知られ、鎌倉名物の「鳩サブレー」が広まるきっかけとなった人物でもある[5]。東洋大学で教鞭を執るなど[1]、後進の育成にも尽力した。 来歴生い立ち1883年(明治16年)11月12日[2][3]、静岡県城東郡にて生まれた[2][† 1][† 2]。のちに京都帝国大学に進学する[1][2][3][† 3]。当時の京都帝国大学は分科大学制を採っており、京都帝国大学の傘下にある京都医科大学にて学んだ[2][† 4]。学内では平井毓太郎の門下となり[6]、指導を受けた。1910年(明治43年)、京都帝国大学を卒業した[1][2]。それに伴い、医学士の称号を取得した[† 5]。なお、後年になって「生理的竝に超生理的吸引力に対する乳腺の組織学的研究」と題した博士論文を執筆し、1923年(大正12年)11月28日に京都帝国大学より医学博士の学位が授与された[7][† 6]。なお、1923年(大正12年)には竹內家の家督を継いでいる[1]。 医師として大学卒業後は、母校である京都帝国大学に採用され[2]、京都医科大学の小児科学教室に入局した[2]。1913年(大正2年)、東京府東京市にて医院を開業する[2][3]。1920年(大正9年)には小児科を専門とする竹内病院を設立した[1]。それ以来、1971年(昭和46年)までの長きにわたって第一線で活躍した[2]。 なお、東洋大学においては教授を兼任していた[1]。公的な役職も歴任しており、東京市役所にて嘱託を兼任していた[1]。日本医師会では理事に就任している[2][3]。また、東京都医師会においては副会長などを歴任した[2]。 これまでの功績が評価され、1966年(昭和41年)には勲四等瑞宝章が授与されている[2][† 7]。1973年(昭和48年)3月21日に死去した[2][3]。 研究専門は医学であり、特に小児科学に関する分野について研究していた[1][2]。児童の栄養について研究するなど栄養学の重要性に着目しており、医学だけでなく食品栄養科学にもかかわる研究に取り組んでいた。 一例として、牛乳や乳製品の有用性の啓蒙が挙げられる。当時の日本国民にとって、牛乳はまだ馴染みのない飲料であった。医学者である杉田直樹との共著『兒童の性と榮養』において[8]、薰兵は牛乳について一章を割いてその有用性を説き[9]、飲む量、温度、消毒、保存、加熱時の変化など詳細に解説している[9]。また、豊島屋の「鳩サブレー」について、医師の秋場隆一とともに「離乳期の幼児食に最適」[5]とコメントしたことでも知られる。当時の一般家庭ではバターにまだ馴染みがなかったことから[5]、鳩サブレーは全く売れていなかった[5]。しかし、隆一と薰兵の推薦をきっかけに[5]、御用邸からも発注されるようになり[5]、鳩サブレーは神奈川県鎌倉市の名物として浸透するに至った。 さらに、母子の栄養と健康改善に取り組む母子健康協会が1934年(昭和9年)2月11日に設立されると[10]、同郷の医学者である吉岡彌生らとともに理事に就任している[10]。 学術団体としては日本小児科学会[1][2][3]、日本児童学会[1][2][3]、日本医史学会[11]、などに所属していた。日本小児科学会では理事に就任しており[1]、日本児童学会では推されて幹事に就くなど[1]、要職を歴任した[1][3]。これまでの功績により、日本小児科学会より名誉会員の称号が授与されている[2]。また、日本児童学会からは名誉会長の称号が授与されている[2]。日本医史学会においては、富士川游、藤浪剛一、藤井秀旭、小田平義とともに発起人の一人として名を連ねている[11]。 人物
家族・親族薰兵は鈴木良平の長男として生まれた[1]。のちに竹內元正の養子となり[1]、姓を鈴木から竹內に改めている[2][3]。薰兵の父である鈴木良平は、静岡県城東郡高瀬村にて稲作の改善を図る農事巡回講師を務めるとともに[21]、報徳思想を啓蒙する社会運動家でもあり、橋本孫一郎や鷲山恭平と並んで「小笠報徳三人衆」[22]と称された。薰兵の弟にあたる鈴木登は[1]、内務省に入省したのち、青森県知事や長野県知事などを歴任した。なお、薰兵は登ら兄弟とともに良平の事蹟を回顧する書籍を編纂している[23]。 薰兵は楢林文吾の長女と結婚した[1]。なお、薰兵の二男は文吾の養子となり[1]、楢林家に入った。薰兵の長女は、東京大学第一工学部教授などを歴任した林毅と結婚した[1][24]。 略歴
栄典
著作単著
共著
編纂
寄稿、分担執筆、等
脚注註釈出典
参考文献
関連人物関連項目外部リンク |