佐古利正
佐古 利正(さこ としまさ、明治45年〈1912年〉6月26日 - 平成10年〈1998年〉9月22日)は、日本の神職、教育者。宇津神社宮司。 生涯明治45年(1912年)6月26日、佐古吉浦・しづ夫妻の五男として、山口県都濃郡鹿野町(現周南市)に誕生した[1]。 昭和5年(1930年)、旧制山口県立岩国中学校を卒業すると、姉幸嬰の強い影響を受けて、同年4月1日に神宮皇學館本科第二部に入学した[1][2][3]。同期には呉市出身の白石舜逸がいた[1][2][3]。在学中の昭和7年(1932年)5月、神宮皇學館大講堂に於いてジョセフ・ウォーレン・ティーツ・メーソンの「神道の創造性について」という講演会が開かれこれに出席すると強い衝撃を受け、メーソンの『神ながらの道』を日夜読み耽ったという[1]。 昭和9年(1934年)3月10日、神宮皇學館を卒業し[4]、岩国で教師となる[1]。昭和13年(1938年)7月、西村八重子と結婚するがその4日後に召集令状が届き、応召した[1]。支那事変(日中戦争)のため上海に上陸し、無錫に移るもマラリア・結核に罹患し、野戦病院に移送され二年間の療養ののち昭和15年(1940年)広島に於いて除隊した[1][注釈 1]。その後は旧制山口県立宇部中学校で「国史」の教師となった[1][注釈 2]。 昭和17年(1942年)、長男 昭和23年(1948年)、岩国に戻って新制中学校で英語を教えた[1]。その後、和木町立和木中学校第6代校長に就任[* 3]。昭和43年度(1968年4月 - 1969年3月)、明治100周年記念事業として予算33万円で門柱・門扉を築造することになると、利正校長は3名の教員と共に門に相応しい自然石を探しに、錦川を遡上して錦町まで到って探すも見つからず、夕刻に小瀬川を下って弥栄峡でようやく見つけたという[* 4]。その石に刻まれた「自尊」と「敬虔」という言葉について、「自尊とは、自分の人格を大切にして品位を傷つけないこと」「敬虔とは、神仏を深く敬いつつしむさま」このことを生徒たちに教え続けた[1]。 教職を退くと、宇津神社宮司に専念した[1]。平成2年(1990年)10月27日には宗像大社を正式参拝している[6]。 平成10年(1998年)5月5日、姉幸嬰が帰幽[7]。同年9月22日、後を追うように86歳(数え87歳)で帰幽した[1]。 系譜脚注注釈書籍出典ウェブサイト出典
参考文献書籍
社報
官報
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