伊奈城
伊奈城(いなじょう)は、三河国宝飯郡伊奈村(現愛知県豊川市伊奈町柳)にあった日本の城。豊川市指定史跡[2]。 概要室町時代に本多定忠・本多定助によって築城された中世城館で、約150年間伊奈本多氏の居城であった。 主郭は深田の中にあり河川に囲まれ主郭周囲は土塁でめぐらされていた方形居館型の城郭[3]。 徳川家の家紋「葵の紋」発祥ゆかりの地として知られている[注釈 1]。 沿革15世紀中ごろ、本多定忠・定助が伊奈城を築城[4][注釈 2] 文明年間(1469年-1487年)ころ、幕府直轄領になっていた[7]。 大永6年(1526年)ころ、今橋牧野氏の勢力下になっていた[7]。 享禄2年(1529年)松平清康が吉田城攻めの後田原城を従属。本多正忠は松平勢に参戦、清康を伊奈城に招き祝宴を開く。[8][6][7]詳細は「三河国平定」参照 天文17年(1548年)ころ、今川氏統治下本多氏が領地回復[7]。 永禄年間(1558年-1570年)大塚の岩瀬氏に攻められたが柳堤にてこれを退ける[6]。 永禄6年(1563年)今川氏に伊奈城一円の確保を命じられ本地還付と新知扶助を約束[7]。 永禄7年(1564年)徳川家康東三河に進出、この時本多忠次は家康に従属し功をなす[6]。 天正18年(1590年)徳川家康の関東移封に伴い本多氏は下総国小篠に国替えとなり廃城。 歴代城主廃城後文化10年(1813年)膳所藩主本多家家臣黒田忠明が花ヶ池に建碑[11]。 大正2年(1913年)元膳所藩藩士平田好の篤志に基づき伊奈城趾土塁上に建碑[12]。 平成6年(1994年) 発掘調査実施 堀跡・逆茂木跡、礎石等の遺構などが確認された[5]。 平成9年(1997年) 小坂井町(現豊川市)史跡に指定。公園として整備。 縄張り湿地帯(深田)に立地し主郭は三方を河川に囲まれ、周囲の土塁上に3か所の矢倉を有し、主郭内には生念台とよばれる火葬施設があった[5]。 遺構土塁郭跡と主郭北側の土塁が残る。 花ヶ池「葵の紋」発祥にまつわる城域の池。「葵ヶ池」とも呼ばれた。 仲仙寺 山門伊奈城廃城後、城門が伊奈本多氏の菩提寺 東漸寺に移築、後年仲仙寺(同市御津町金野)に移されたと伝わる[6]。 伊奈本多氏来歴三河国平定東三河攻め1529年(享禄2年)、三河平定を推し進める松平清康(徳川家康の祖父)は東三河へ進攻して吉田城(豊橋市)へ迫った。伊奈城主本多正忠は姻戚関係であった吉田城主牧野氏との関係を絶ち、いち早く清康の陣に参じた。夜陰に紛れて吉田川を渡り、吉田城の東門を打ち破って城内に突入し松平勢を導き入れたという。 田原攻め吉田城を攻略した清康は休む間もなく軍を田原城攻略へ向けた。しかし、田原城主の四代目戸田宗光は、戦わず清康の下へ降った。この時、宗光は清康の一字を貰い受けて「戸田康光」と名乗る。この田原攻めでは正忠らの本多勢が先導役を果たしたとされている。 この後、清康は吉田城へ凱旋し、東三河の諸豪族の服従を受けて、本拠地の岡崎へ戻るが、田原城から吉田城への凱旋の途中、伊奈城へ立ち寄って勝利の祝宴を開いた。その際に正忠は、城内にあった「花ヶ池」の水葵の葉に肴を盛って差出したという。 清康は喜悦して、
と本多家の「立葵紋」を所望したという。このことにより、正忠は清康への心服の情が一層深まったとされる。 後に立葵紋は松平家の紋となり、家康の代に「三葉葵紋」となったとされる。 守山崩れ破竹の勢いで三河を平定した松平清康であったが、1535年(天文4年)の尾張の織田信秀攻めで出陣中に守山で家臣に殺害されてしまう(「守山崩れ」)。 この事により、松平氏による三河支配は瓦解して、再び三河国内は乱れてしまった。 今川義元と桶狭間守山崩れの後、三河国は駿河・遠州の今川義元による版図となり、正忠は今川方の属将となる。正忠の後に、忠俊が伊奈城主を継いだ。 1560年(永禄3年)、桶狭間で今川義元が敗死すると、忠俊は子の光忠と共に松平元康(徳川家康)の下に参じて戦功を重ねることとなる。忠俊の後、光忠は病身であったため弟の忠次が伊奈城主となる。 再び三河国平定へ1564年(永禄7年)、光忠と忠次は吉田城攻めを家康に進言、二連木城の戸田重貞を説いて味方にするなどして活躍した。この功により伊奈城主の忠次には五千貫の地が与えられた。 忠次は酒井忠次と陣を同じくして、姉川・長篠、高天神城と戦い続け、戦功を重ねた。しかし、忠次には子がなかったため、同陣の酒井忠次の次男を養子で迎え、名を康俊とした。 家康関東移封と廃城1590年(天正18年)、家康の関東移封に伴い、伊奈本多氏は先祖代々約150年間住み続けてきた伊奈城を去ることとなる。伊奈本多氏の封地は、下総国小篠郷五千石であった。伊奈城はその後、廃城となる。 その後1600年、関ヶ原の戦い後、康俊は三河西尾城二万石の大名となった。養父忠次は西尾で没した。 1615年、大坂の陣の戦功で近江膳所城三万石を拝領した。康俊の後は俊次が継いだ。俊次は後に加増再封されて七万石の藩主となる。以後十三代膳所藩主として続き、明治を迎えた。 アクセス鉄道
自家用車周辺
脚注注釈
出典
関連項目外部リンク
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