仁村薫
仁村 薫(にむら かおる、1959年5月9日 - )は、埼玉県川越市出身の元プロ野球選手(外野手)、コーチ。 弟は自身と同じ元プロ野球選手の仁村徹で、現役時代は中日で一緒にプレーした経験がある(当時はスコアボードなどには「仁村兄(=薫)」「仁村弟(=徹)」と表記されていた)。 経歴川越商業高ではエース投手だったが、2年秋の県大会準決勝で春日部工の大塚淳弘と投げ合って敗れる。 高校卒業後は早稲田大学へ進む。3年時からエース投手としてリーグ通算36試合登板し17勝10敗、防御率1.57、163奪三振。4年時には第10回日米大学野球選手権大会の代表に選ばれ1勝を挙げたほか、打力を買った島岡吉郎代表監督が代打に起用、ホームランを放った。 1981年のプロ野球ドラフト会議で読売ジャイアンツから6位指名を受けて入団。4年秋はヒジの故障があり、既に新日鉄室蘭に内定していたため事前の連絡がない6位指定に監督らは反対したがプロ入りを決断した[1]。 1年目の1982年に外野手に転向し調整のため左打席にも挑戦した[1]。1984年に一軍デビューする。主に左投手時に代打や中堅手として活躍。1987年のオフに自由契約となり、弟・徹が在籍する中日ドラゴンズへ移籍。 翌1988年は弟と共に二軍スタートだったが、一軍に昇格するや否や代打や守備固め、左投手が先発のときのスタメンなどで活躍し、7月12日の横浜大洋ホエールズ戦では中山裕章からサヨナラヒットを放ち、弟と共に同年のリーグ優勝に貢献した。1990年限りで現役を引退し、引退試合ではナインから胴上げされた[1]。 引退後引退後は家業(農業)を継ぎながら、1991年から1994年まで、名古屋テレビ・東海ラジオで野球解説者を務めた。 1995年、巨人の二軍外野守備・走塁コーチに就任。1997年オフに巨人を退団後、中日の二軍野手総合コーチに就任。同時に二軍監督となった弟を補佐した。1999年は一軍外野守備・走塁コーチとして、その年のリーグ優勝に貢献。その後、2000年には二軍打撃兼外野守備・走塁コーチ、2001年から2002年はフィジカルコーチを歴任した。2002年のオフに一旦退団したが、2003年オフ落合博満の監督就任に伴い復帰。肩書きはトレーニングコーチ。情熱と闘志の人で、落合監督とは現役時代に中日で一緒にプレーし、お互いを熟知する仲であった。“トーキングコーチ”のニックネームがついたほど選手とコミュニケーションを取るのが得意であった。またベンチでは相手チームを野次る事に徹し野次将軍としても名を馳せた。2007年10月31日付で退団。荒木雅博は2000本安打達成の際、弟の徹と共に仁村を恩人として名前を挙げ「土台を作ってくれた。2軍の5年間が大きかった」と述べている[2]。その後、社会人野球・所沢グリーンベースボールクラブコーチ、2010年はテレビ愛知で野球解説者を歴任。 2010年11月1日、弟・徹が二軍監督を務める東北楽天ゴールデンイーグルスの二軍総合コーチ就任が発表された[3]が、2011年1月1日付で徹が一軍作戦コーチに異動となったのに伴い、自身も同日付で二軍監督に異動となった[4]。2012年、新設された野手総合兼巡回コーチに配置転換した[5]が、同年のシーズン終了をもって退団[6]。その後は家業の米農家の仕事に専念している[7][8]。 2021年2月8日、3月1日付で専修大学の投手・総合コーチに就任すると発表された[9]。 小江戸川越観光親善大使、益子焼で有名な栃木県の益子大使を務めている[10]。 プレースタイル・人物持ち前のパンチ力を生かした打撃が武器[11]。巨人時代は主に対左投手の先発や代打、守備固めで出場することが多かった[1]。中日時代はコーチの石井昭男と二人三脚で練習に励んだ結果、打撃が向上し、主に代打の切り札として活躍した[1]。 明るい性格の持ち主で、野球では理論派[1]。一方で、巨人時代は反りが合わないと感じたコーチには一切近寄ろうとしない頑固な一面があった[1]。中日移籍後は「僕は星野(仙一)監督に拾われた身。打たなくてはいけない義務があるんだ」と改心し、誰よりも早く球場入りして黙々と走り、特打ちに汗を流していた[1]。その姿に星野からは「薫は自分のことよりチーム全体のことを考え、みんなを引っ張る男です」と頼りにされていた[12]。 音楽鑑賞を趣味としており、クラシックからシャンソンの金子由香利まで幅広く聴くという[1]。定期購読雑誌は『財界』で、本棚には経済学や経営学の専門書が並ぶ異色の選手であった[1]。 詳細情報年度別打撃成績
記録
背番号
関連情報過去の出演番組※いずれも、解説者として。
脚注
関連項目外部リンク
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