五月潤子
五月 潤子(さつき じゅんこ、1907年12月10日 - 没年不明[1])は、日本の女優である[2][3]。本名曾我 冬子(そが ふゆこ)[1]。 人物・来歴1907年(明治40年)12月10日、東京府東京市芝区(現在の東京都港区芝)に生まれる[1]。旧制・尋常小学校在籍時から、日本舞踊の藤間政弥に師事する[1]。 1932年(昭和7年)7月、満26歳で日活太秦撮影所時代劇部に入社、辻吉朗監督のサイレント映画『江戸染草鞋』で主演の海江田譲二の相手役に抜擢されて映画界にデビューする[1][3]。時代はサイレント映画最末期であり、翌1933年(昭和8年)には、監督・伊藤大輔、主演・大河内傳次郎にとってのトーキー第1作『丹下左膳 第一篇』[4]にお登勢役で出演している[3]。 1934年(昭和9年)には同撮影所が日活京都撮影所と改称、引き続き所属した[3]。1935年(昭和10年)には、稲垣浩が監督し、山中貞雄と荒井良平が応援監督し、大河内傳次郎が主演した『大菩薩峠 第一篇 甲源一刀流の巻』に山岡屋お滝役で出演している[3]。1936年(昭和11年)以降、悪役俳優から喜劇俳優に転向した高勢実乗と鳥羽陽之助のコンビが主演する時代劇コメディに多く出演するようになる[3]。 1937年(昭和12年)、ゼー・オースタヂオ(のちの東宝映画京都撮影所)に大河内傳次郎、黒川弥太郎らとともに移籍、4作に出演する[3]が、翌1938年(昭和13年)に同社を退社し、映画界を去った[1]。以降の消息は不明である[1][2][3]。 フィルモグラフィ日活太秦撮影所
日活京都撮影所
ゼー・オースタヂオ
註外部リンク
|