亀井節夫
亀井 節夫(かめい ただお、1925年12月25日 - 2014年5月23日[3])は、日本の古生物学者。野尻湖でのナウマンゾウの発掘などに関わった。父親は海軍少将の亀井凱夫。伯父(凱夫の実兄)は社会大衆党議員で元外交官の亀井貫一郎。叔父(貫一郎と凱夫の義弟)の毛里英於菟(ひでおと)は、大蔵省と企画院の官僚で、迫水久常などと並ぶ革新官僚の代表格。 略歴神奈川県鎌倉市生まれ。旧制神奈川県立湘南中学校、北海道帝国大学理学部を経て、1949年東京大学理学部卒業。1950年信州大学文理学部助手、1961年「日本列島のデボン系の研究」で、北海道大学より理学博士の学位を取得。1956年信州大学講師、62年助教授、1963年京都大学理学部助教授、66年教授、1989年定年退官、名誉教授、信州大学理学部教授、1992年~1999年徳島県立博物館館長[4][1]。京都大学名誉教授[5]。 2014年5月23日、敗血症ショックのため死去[3]。88歳没[3]。 人物亀井節夫から生い立ちを聞いた工藤晃は亀井家の来歴について次のように語っている。「津和野藩主であった亀井本家は尊王攘夷派、高崎亀井家(こうがさき、あるいはこうさき)は佐幕派であったことから義絶状態に置かれていた。その後、高崎亀井家は再興されるが、いろいろな不幸が続き、紆余屈曲して節夫氏の代へといたった」。亀井節夫の「父は海軍軍人の飛行機乗りで1944年戦死している。その間、亀井節夫氏の曾祖父が若くして急死して、高崎亀井家が母子家庭になった時期に、曾祖母の綾、祖母の八重は、西周一家と昵懇の間柄となり、大変お世話になった」「西周の日記には高崎亀井家のこと、とくに八重についての記述が多く見られる、という」「亀井節夫氏の家がこれほど西周と近い関係にあったことから、彼はずっと西周に強い関心をよせ、とくに西の日記を読みながら研究し、西周像をつくりあげてきた」ようだ、という[6]。 著書共著編著
翻訳
記念論文集
論文
栄典関連人物
関連項目参考文献
脚注
外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia