毛里 英於菟(もうり ひでおと、1902年〈明治35年〉2月16日 - 1947年〈昭和22年〉2月23日)は、日本の大蔵官僚。代表的な革新官僚であり、またそのイデオローグ・政策立案者として活躍した。筆名は鎌倉 一郎(かまくら いちろう)。
人物
『門司新報』社長で衆議院議員でもあった毛里保太郎の次男、妻は亀井貫一郎と亀井凱夫の妹。福岡県に生まれ、小倉中学校、第五高等学校から東京帝国大学法学部を卒業後、大蔵省へ入省。企画院の幹部を歴任した。
1935年(昭和10年)、満洲国財務部に勤務していた毛里はジャーナリストの杉原正巳と意気投合し、後に杉原が主宰する雑誌『解剖時代』に次々と論文を投稿した。杉原の活動は陸軍統制派の永田鉄山の援助を受けたものであった。
迫水久常、美濃部洋次と共に「企画院三羽烏」と呼ばれた[1]。
革新官僚達はマルクス主義の教養を身につけていたといわれるが、特に毛里は教養に止まらず、正木千冬、志賀義雄、服部之総達と共同で東大柳島セトルメントを創設し、活発に活動した。
『毛里英於菟関係文書』が国立国会図書館憲政資料室に寄贈されており、占領地の行政・財政(北支・蒙彊・満洲国・冀東政府等)、企画院の経済政策、1945年の敗戦処理、等の資料や著作・講演の草稿類が蔵書されている。
略歴
著作
毛里は「鎌倉一郎」のペンネームを使用して雑誌『解剖時代』に下記の論文を投稿した。
- 1938年(昭和13年)10月「東亜共生体建設の諸条件 -長期建設の目標」
- 11月「『東亜一体』としての政治カ -日支間の原理的政治秩序の確立が第一義だ-」
- 12月「事件第四期は政治を展開す」
- 1939年(昭和14年)1月「国民組織と東亜協同体の不可分性」
- 2月「中国の『抗戦建国』を批判す」
- 3月「東亜協同体と技術の革命 -国民経済確立の一命題-」
- 4月「日本国民経済の形成と政治 -法としての『東亜の新秩序』」
- 5月「国民経済と私益」
- 6月「東亜に於ける『防共』の意義」
- 9月「技術の解放と政治 -技術精神の革新-」
- 11月「国民生活組織の基点」
- 12月「統制経済の貧困の原因 -自然力か組織カか-」
- 1940年(昭和15年)1月「反動を克服する政治 -紀元二千六百年宣言-」
- 2月「国民意識と政治」
- 3月「事変完遂の意識と体制 -自由主義秩序の混乱を克服するもの-」
- 4月「抽象的な物価と具体的な物価」
- 5月「戦時経済の新階段」
- 7月「日本東亜世界の次代的秩序 -夫々の編成過程に就いて-」
- 8月「政治-政策、原理、組織-生活 -国民総力体制の結成について-」
- 10月「政治の指導性」
- 11月「支那事変と欧州戦争との密着」
- 1941年(昭和16年)1月「日本技術の具体的任務」
脚注
参考文献
- 川口学「「革新官僚」の思想に関する一考察 -毛里英於菟の思想を中心に-」1999年6月(『一橋論叢121-6』)
- 秦郁彦『官僚の研究 日本を創った不滅の集団』講談社学術文庫、2023年
- 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典[第2版]』2013年、東京大学出版会
関係項目
外部リンク