中山城(なかやまじょう)は、出羽国置賜郡および村山郡(山形県上山市中山[1])にあった日本の城(山城)。
概要
永禄~元亀年間(1558年~1572年頃)、米沢城主伊達輝宗が最上家に対する最前線基地として、家臣の中山氏中山弥太郎に命じて築城。城山(標高344メートル)の山頂から山腹にかけて築かれた。江戸時代には米沢藩五支城[2]の一に数えられて重臣が藩境の防備に当たった[3]。城下の街道は物資の移動や民衆の行楽、出羽三山の講などで多くの往来があり中山宿が形成された。
歴史
- 1558年~1572年頃(永禄~元亀年間) - 伊達輝宗の家臣中山弥太郎が築城
- 1578年頃 - 小国盛俊が城主
- 1590年 - 伊達氏が岩出山に転封となり、会津の蒲生氏郷の家臣である蒲生郷可が城主となる
- 1598年 - 上杉景勝が会津に入封し、家臣の横田旨俊が城主となる
- 1600年 - 慶長出羽合戦のなかで「物見山の合戦」が行われた
- 合戦後に廃城となり、城の麓には御役陣屋(代官所)が新たに設置され、明治3年に廃止となるまで中山地区の統治を行ったとされる。
遺構・復元施設
中山小学校跡地となっていたが、徐々に城山として整備されつつある。中山城の縄張りは置賜・村山にまたがり奥羽屈指の規模と伝わる[4]。現在でも中山宿では古い建物が点在し、旧宿場町の風情を残す町並みが続いている。
遺構と標示物
- 登城口に「中山城跡」石碑
- 堀と土塁
- 二の丸虎口の屈曲路
- 本丸跡 - 「天守山大神」と「植林記念」の石碑が置かれる。
- 天守台の石垣
支城
- 上ノ山楯 - 平坦な頂部を主郭とし、西から東南にかけて、狭小な階段状帯曲輪で幾重にも取り囲んだ館。
交通
脚注
- ^ 村山郡には米沢藩上杉家の預かり地5万2千石余がある。
- ^ 館山城・鮎貝城・荒砥城・小国城・中山城(館山城を除く4城はのちに「役屋」に改称)。幕末の加増により高畠城が追加。
- ^ 「上杉家御年譜」(米沢温故会) に「元禄五年(1692)中山御役屋と改称」と記される。
- ^ 登城口の案内板(平成10年、上山市・中山地区会)
関連項目