世田谷局ケーブル火災
世田谷局ケーブル火災(せたがやきょくケーブルかさい)は、1984年(昭和59年)11月16日(金曜日)に東京都世田谷区で発生した電話ケーブル火災事故である。 加入電話や都市銀行のオンラインが一時不通となった都市型災害で、電電公社が完全復旧宣言を出すまでに9日間を要した。 火災概要1984年11月16日(金曜日)午前11時50分頃、東京都世田谷区太子堂4丁目の日本電信電話公社(電電公社)世田谷電報電話局近くの洞道(とうどう)で、増設工事中の電話ケーブルより出火[1]。17時間近くにわたり延焼し、翌日午前4時37分に鎮火した[2]。作業員2名が一時行方不明となったが、死傷者は出なかった。 当時、同局と三宿交差点付近との間で電話回線の増設工事をしており、ケーブルを保護する鉛管をトーチランプで溶かす作業において、ランプの炎がポリエチレン製のケーブル被覆や、詰め物や敷物として使用していたウエス[3]に引火した事が原因とみられている。現場付近には、2,400回線を一束とする直径6cmの加入者ケーブル52本と、中継ケーブル35本、計87本のケーブルが通っていた[4]。 影響と対応この火災により、世田谷電話局管内の加入電話約8万9千回線、管内の公衆電話、一部の警察電話、区内池尻にコンピュータ事務センターを置く三菱銀行(現:三菱UFJ銀行)のオンライン(全国243支店)が不通となった。区内三軒茶屋に東京事務センターを置く大和銀行(現:りそな銀行)の東京都・神奈川県・千葉県・埼玉県の61の支店で一時窓口での預金・ATMでの引き出しができなくなったほか、第一勧業銀行(現:みずほ銀行)、山種証券(現:SMBC日興証券)の一部支店や世田谷区、狛江市内の郵便局にも影響が生じた[4]。近隣の狛江、成城、砧、弦巻の各電話局管内でも電話がかかりにくい状況が続いた[2]。 119番や110番などでの緊急通報もできなくなったため、東京消防庁では火の見櫓を活用したり「東京消防庁アマチュア無線クラブ」がアマチュア無線で出火・救急通報に備えて待機態勢を取ったり、市民が直接交番に出向いて警察の出動要請を行うなどの事態が生じた[4]。 洞道内部には、狛江、成城、砧、弦巻の各局からの中継系ケーブルがあり、6,400回線中4,000回線が不通になった。回線接続箇所は130万箇所[5]。復旧工事にあたったのべ作業員2万3千人、直接工事経費3億3500万円。機動隊員300人、パトカー28台、消防車51台、伝言飛脚400人が動員された。 三菱銀行はマイクロ波中継車を用意し、17日朝に仮復旧した[2]。電電公社では臨時公衆電話の設置や、被災地域外からの電話内容のメモを被災地内の相手方に配達する「伝言飛脚」を実施した[6][7]。弦巻電話局では、通常の土曜日は400 - 500通を扱う電報が、17日(土曜日)は4,400通となるなど、電報の扱いも急増した[6]。 郵政省では、世田谷区・目黒区内へのダイレクトメールを除く通常郵便物を、速達郵便扱いとする措置を講じた[8]。世田谷区役所は札幌市内(市外局番011)に臨時に設けた番号から通信衛星で電話を転送する措置をとった。玉川通りでは通常は車両の通行量を感知して点滅間隔を調整する信号制御を行っていたが、復旧までの間は等間隔での点滅となった[9]。 11月20日、三菱銀行のオンラインが完全復旧し、同日夜9時に世田谷電話局に隣接する加入電話398回線が初めて本復旧した[10]。 11月25日、電電公社総裁の真藤恒は、「11月24日午後9時50分までに全加入者を対象としたテスト作業を完了した」と完全復旧を宣言した[11]。 主な被害施設火災によるこのほかの不通事故1975年4月20日、北海道旭川電報電話局東光分局の火災があり、1.9万回線が不通となり、復旧に2週間かかった。そのため、今回も当初復旧に5ヶ月かかると予想された。 1975年2月27日、ニューヨークのアベニュー電話局の洞道から出火し、電話局が全焼。管轄する17万回線中10万回線が不通になり、仮復旧に23日、完全復旧に6ヶ月を要した。 1980年3月、東京の富国生命ビル内のダクト内の電力・通信用ケーブルが炎上した。 問題点と対応バックアップ体制の不備などが、この事件の最大の問題であった。
これを教訓とした対応として、以下が挙げられている。
脚注
参考文献関連項目
外部リンク
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