下甑町瀬々野浦
下甑町瀬々野浦(しもこしきちょうせせのうら[3])は、鹿児島県薩摩川内市の大字[4]。旧薩摩国甑島郡甑島郷瀬々之浦村、甑島郡下甑村大字瀬々野浦、薩摩郡下甑村大字瀬々野浦。郵便番号は内川内地区(1700番地以降)が896-1412[5]、それ以外の地域は896-1512[6]。人口は96人、世帯数は72世帯(2020年10月1日現在)[7]。 甑島列島の下甑島の北西部に位置する。西部の海岸はナポレオン岩や松島海岸、鷹巣瀬などの奇岩や断崖が連なっており、景勝地となっている[8][9]。 地理薩摩半島の西部に浮かぶ甑島列島南部の下甑島の北西部に位置している。字域の東方には鹿島町藺牟田、下甑町長浜、下甑町青瀬、南方には下甑町片野浦がそれぞれ接しており、西部には東シナ海に面している。 瀬々野浦地区と内川内地区の2地区からなる。瀬々野浦地区は、東シナ海に面しており周囲を山に囲まれている[10]。昭和後期に手打・長浜方面へ道路が開通するまでは、交通の便が悪く海上交通に頼っていた[10]。瀬々野浦地区には西山簡易郵便局が置かれており、かつては西山小学校、西山中学校が置かれていた。 内川内地区は、瀬々野浦からの移住者によって18世紀初めごろに尾岳連邦の中腹を開拓して住み着いた区域であり[9][11]、「うちかわうち」や「うちのこうち」と読まれる[11]。行政上では瀬々野浦とは独立した区域として扱われる[8]。海抜300メートルから400メートルに位置しており、集落の周囲の耕作地も山腹の斜面に広がっていたという[11]。かつては内川内小学校と内川内中学校が設置されていた。下甑町長浜から航空自衛隊下甑島分屯基地を経て内川内地区に至る道路は自衛隊道路と呼ばれ、内川内地区の重要なライフラインとなっている[12]。 海岸線の多くが奇岩や断崖から構成されており[8]、沖にはフランスの皇帝「ナポレオン・ボナパルト」の横顔に見えるという高さ127mのナポレオン岩や[13]、松島、鷹巣瀬などがあり景勝地となっている[8]。また、北部の内川内海岸には平家の落人が甑島に漂着した際に舟8艘を隠したといわれる八艘穴がある[8][9]。 自然保護地区2015年(平成27年)3月16日に甑島列島の区域を対象とした国定公園として「甑島国定公園」が指定された[14][15]。集落を除いて瀬々野浦のほぼ全域が国定公園の区域に含まれており、2015年(平成27年)3月16日の鹿児島県告示「甑島国定公園区域内における特別地域の指定」により一部が特別地域に、「甑島国定公園特別地域内における特別保護地区の指定」によって一部が特別保護地区、「甑島国定公園区域の海域内における海域公園地区の指定」によって瀬々野浦の海域が「下甑島西海岸海域公園地区」にそれぞれ指定された[16]。 山岳国土地理院地図(抄)。
島嶼・岩礁国土地理院地図(抄)。陸繋した浜辺や海礁上の小岩、無名の岩を除く。
小字「角川日本地名大辞典」によると下甑町瀬々野浦の小字は以下のとおりである[17]。 浜里、古里、小里、開田、上開田、的場、中平、上ノ開、下道、峠、石田、敷樋、日影、上井手、湯穴、夏迫、笛畠、平石、下平石、新山、高名、丑川、西平石、長平、池ノ平、下長平、滑川、大桑木、上大桑木、千田、高道、高田、大林、登立、矢畑、鯨林、坂ノ下、松元、江川、前ノ平、松板、下松板、赤落、上野作、柞大迫、屋床、野竹、大内ノ浦、落し、野間、木床、金山、金山平、小屋床、桐、前迫、浜平 歴史瀬々之浦の成立瀬々之浦という地名は江戸時代より見え、薩摩国甑島郡甑島郷(外城)のうちの瀬々之浦村であった[18]。1471年に朝鮮で刊行された海東諸国紀によれば「世々九浦」は瀬々野浦のことを指しており、記述のうち九は乃の誤字とされる[9]。「元禄国絵図」には下甑村の一部として「瀬々ノ浦村」と記載されている[9]。村高は「旧高旧領取調帳」では161石余[18]、「三州御治世要覧」によれば100石余であったと記録されている[9]。 江戸時代の測量家である伊能忠敬が著した「九州東海辺沿海村順」によると家数が210であり、「伊能忠敬測量日記」によれば内ノ河内(現在の内川内地区)の人家は20軒程度あったと記されている[9]。 瀬々野浦地区は「下甑町郷土誌」によればいつから人が居住していたかについては定かでないとされているが、古町川の河川改修工事において弥生時代中期ごろの土器片が発掘されている[10]。他の甑島の集落の状況から考えると早い時期には人が居住していたのではないかと推測されている[10]。内川内地区は18世紀の初めごろに瀬々野浦からの6戸が移住したことに始まり、さらに24戸が移住したとされている[11]。 江戸時代後期に薩摩藩が編纂した地誌である『三国名勝図会』では瀬々野浦の浦町である瀬々浦について以下のように記述している[19]。
また、内川内海岸にある八艘穴についても以下のとおり記述されている[19]。
町村制施行以後1889年(明治22年)に町村制が施行されたのに伴い、下甑島にあった下甑島にある手打村、片野浦村、瀬々野浦村、青瀬村、長浜村、藺牟田村の6村が合併し下甑村が発足。それまでの瀬々野浦村の区域は下甑村の大字「瀬々野浦」となった[18]。翌年の1890年(明治23年)2月5日には、下甑村の条例「下甑村区会条例」によって町村制第64条及び第114条に基づく区である「第三区」が大字瀬々野浦一円を区域として設置された[20]。 1999年(平成11年)2月12日に公有水面埋立地の区域を瀬々野浦字丑川及び字小里に編入した[21][22]。 2004年(平成16年)10月12日に下甑村が川内市、東郷町、入来町、祁答院町、樋脇町、鹿島村、上甑村、里村と新設合併し薩摩川内市が設置された[23]。この市町村合併に伴い設置された法定合併協議会において大字名については「従前の村名を町名とし、これを従前の大字名冠したものをもって、大字とする」と協定され、旧村名である「下甑村」の村を町に置換え、従前の大字名である瀬々野浦に冠することとなった[24]。合併当日の10月12日に鹿児島県の告示である「 字の名称の変更」が鹿児島県公報に掲載された[25]。この告示の規定に基づき即日名称の変更が行われ、大字名が「瀬々野浦」から薩摩川内市の大字「下甑町瀬々野浦」に改称された[3]。 字域の変遷
文化財国指定市指定薩摩川内市が指定している文化財は以下のとおりである[31]。
民俗ビーダナシ甑島ではフヨウの幹の皮を糸にして織った衣服(ビーダナシ)が日本で唯一確認されており、甑島の中でも下甑村の瀬々野浦でのみ確認されている[32][33][34]。フヨウを表すビーと袖・袂付き長着を表すタナシを組み合わせてビーダナシと呼ぶ[35]。軽くて涼しいために重宝がられ、裕福な家が晴れ着として着用したようである[36]。現存するビーダナシは下甑の歴史民俗資料館に展示されている4着のみであり、いずれも江戸時代か明治時代に織られたものである[36]。フヨウで編んだ紐や綱は南西諸島や九州の島嶼部や伊豆諸島などでも見られ、かつては中国大陸でも甑島同様にフヨウで衣類を編んだという[37]。生糸・木綿・麻・葛で編んだ布は甑島の他の集落でも見られるが、瀬々野浦には生糸・木綿・麻・葛・イチビ・アカメガシワ・フヨウの7種類の材料から作った繊維が存在した[38]。独自の文化が瀬々野浦にのみ存在した背景としては、昭和30年代頃までは陸路での訪問が難しい孤立集落だったこと、民具や無形文化の伝承に熱心な集落だったことなどが挙げられる[38]。 施設公共郵便局
寺社
人口以下の表は国勢調査による小地域集計が開始された1995年以降の人口の推移である。
教育瀬々野浦にはかつて「下甑村立西山中学校」、「下甑村立内川内中学校」、「薩摩川内市立西山小学校」、「下甑村立内川内小学校」(それぞれ廃止時の学校名)が設置されていた。2012年(平成24年)に西山小学校が長浜小学校に統合されたことにより瀬々野浦には学校施設がなくなった。 高等教育瀬々野浦には高等学校が設置されておらず、また甑島列島内にも全日制高校や通信制高校の学習センターは設置されていない。甑島列島内の高校受験生は、学区の制約なく県内の全ての県立高校へ進学できるため、中学校卒業生の多くは九州本土などに転出して、島外の高校に進学する[51]。 中学校「下甑村立西山中学校」は廃止時点で374番地にあり[52]、1947年(昭和22年)に青瀬中学校の教場(週2日は本校に通学)として設置された[52]。1949年(昭和24年)に分校に昇格し[53]、1955年(昭和30年)に独立校となり西山中学校となったが[53]、23年後の1978年(昭和53年)に閉校した[54]。 「下甑村立内川内中学校」は廃止時点で1609番地にあり[55]、1950年(昭和25年)に長浜中学校の分校として設置された[56]。1957年(昭和32年)に独立校となり内川内中学校となったが[56]、21年後の1978年(昭和53年)に閉校した[57]。 小学校「薩摩川内市立西山小学校」は、1880年(明治13年)に瀬々野浦小学校として設立され、1886年(明治19年)に簡易小学校、1893年(明治26年)に西山尋常小学校に改称した[58]。その後1941年(昭和16年)には国民学校となり、1947年(昭和22年)に西山小学校となった[58]。2012年(平成24年)に西山小学校が下甑町長浜にある長浜小学校に統合された。 「下甑村立内川内小学校」は廃止時点で1789番地にあり[59]、1888年(明治21年)に江口菊治によって読書や習字、珠算などの指導を行ったのが前身となっており、1889年(明治22年)に高知復習所となり、1900年(明治33年)に西山尋常小学校の仮教場となった[60]。1914年(大正3年)に高知分教場となり、1943年(昭和18年)に内川内国民学校として独立し、1947年(昭和22年)に内川内小学校に改称した[61]。1978年(昭和53年)に長浜小学校に統合され閉校した[61]。 小・中学校の学区市立小・中学校の学区(校区)は以下の通りである[62]。
交通1972年(昭和47年)に長浜~瀬々野浦、手打~瀬々野浦の道路が開通した。これにより瀬々野浦と島内の道路が接続され、自動車での往来が可能となった[64]。道路の開通前は青瀬まで1時間半、手打まで3時間程度かけて山越え道を徒歩で移動していた[64]。 道路バス長浜港から瀬々野浦までを結ぶコミュニティバスである「甑かのこゆりバス」が運行されている。2020年(令和2年)現在瀬々野浦の区域にあるバス停は以下のとおりである[65]。
関連する人物脚注
参考文献
関連項目
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