上信電気鉄道デハ1形電車上信電気鉄道デハ1形電車(じょうしんでんきてつどうデハ1がたでんしゃ)は1924年(大正13年)に上信電気鉄道(現 上信電鉄)が導入した電車。 本項では同時に導入されたサハニ1形電車、および機器流用・改造車であるデハニ1形電車とサハ1形電車についても記述する。 概要1924年(大正13年)10月3日の上信線高崎 - 上州富岡間の改軌電化完成に合わせてデハ1形がデハ1 - 5の5両、サハニ1形がサハニ1,2の2両の計7両が導入された。 車体は日本車輌製造[1]に、電装品はドイツのシーメンスに、台車は三井物産(アメリカからブリル製品を輸入)に個別に発注を行い、それらの組み立ては東京の竜田工作所[1]で行った[注釈 1]。 車体いずれの車両も全長16m級3扉でダブルルーフ構造の木造車体をもち、台枠下部には補強用のトラス棒が取り付けられていた。デハ1形は定員96名(座席48名)で、両運転台構造の電動車であり、側面扉は旅客用のみの3枚であったのに対して、サハニ1形は定員60名(座席30名)の運転台を持たない旅客・荷物の合造付随車であり、側面扉は旅客用2枚に加えて、荷物用の扉1枚を設けていた。また、サハニ1形は運転台を持たないために、終点駅での機回しを必要とした。 主要機器前述のように電装品・台車はドイツ・アメリカからの輸入品で占められており、デハ1形は主電動機にデキ1形と同一のシーメンス製DJ11B[1](定格出力50kW)を4基搭載し、主制御器もやはりデキと同じシーメンス製総括複式制御器CIB10064Aである。台車はブリル社の高速電車用モデルである27-MCB-2を採用した。なお主電動機こそ同一だが本形式においては歯車比が1:3.865[2]と高く設定されており、デキと比べた場合速度性能重視の設計であった。 サハニ1形も同じくブリル27-MCB-2台車[3]を装備したが、後述の様にデハニ1形新造の際に27-MCB-2と同寸法[4]である汽車製造製KSK-3H台車[3]と振り替えを行った。 導入後の変遷デハニ1形・サハ1形の誕生1924年12月15日には上州富岡 - 下仁田間においても工事が完工し、翌1925年(大正14年)9月に汽車製造東京支店において全長16m級の3等荷物合造車の車体とKSK-3H台車をそれぞれ2両分新造した上で、自社においてデハ1,2の電装品を移設して増備車であるデハニ1形1,2が誕生した[1]。これは当初新造したサハニ1形だと、乗客が少ないときでも荷物があればデハと2両で運転しなければならず大変非効率であったためである[1]。 この際捻出されたデハ2両分の車体は台車をKSK-3Hに振り替えた上でサハ1形と改称している[3]。 後に再び台車の振り替えを行い、最終的にはサハ2とサハニ2がKSK-3Hを装備した。 晩年・鋼製車体への更新その後終戦後に至るまでの20数年間特に手を加えられずに運用された本形列であるが、1948年(昭和23年)から1950年(昭和25年)にかけて室内灯のグローブや座席シートの整備、ポール仕切りであった運転席の完全仕切化[5]といった内装の更新工事を行った[5]ほか1950年と1951年(昭和26年)には、荷物室を撤去のうえで事実上サハとして使用していた[5]サハニ2両の本格的なサハ化工事を行い、サハ1,2と形態を統一したうえで、サハニ1からサハ3、サハニ2からサハ4へと改番を行っている。 しかし1950年代半ばには車齢30年を越えて各部の老朽化・陳腐化が進行したため、台車や台枠、一部電装品を再利用してすでに鋼体化を終えていたデハ10形と同様の車体を新造することになり、1953年(昭和28年)のサハ3を皮切りに、1960年(昭和35年)までに9両全車がデハ20形、クハ20形、デハニ30形、クハニ10形の各形列へと順次更新され姿を消した。 なおED31 6を導入する際に、本形列の発生品であるDJ11B電動機と27-MCB-2台車、CIB10064A制御器が流用されている。 改造対照表
脚注注釈
出典
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