三輪八郎
三輪 八郎(みわ はちろう、1921年11月13日 - 1944年8月17日)は、第二次世界大戦前に活躍したプロ野球選手。群馬県群馬郡片岡村(現・高崎市)出身。左投左打。1942年から1943年は、阪神に同姓の三輪裕章が在籍していたため、区別するため三輪八と書かれることもある。 来歴・人物高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)では、甲子園への出場経験は無し[1]。桐生中学の野球部監督・稲川東一郎の推薦により、稲川の義弟でタイガース職員だった早川二郎を仲介して大阪タイガースに入団[1]。 1年目の1939年から主に先発として起用される。防御率2.14を記録したものの2勝5敗に終わる。 ノーヒットノーランを達成した一人でもある[2]。1940年8月3日、紀元二千六百年記念行事の一環で行われたプロ野球初の満洲遠征中、大連[3]にあった大連満倶球場で行われた巨人との一戦で、タイガースの投手としては初めてノーヒットノーランを達成した[4][1]。当日のゲームは小雨の降る中行われ、4四球3失策の計7人の走者を出しながら被安打0、失点0に抑え、ノーヒットノーランを達成した[1]。後に一塁手の松木謙治郎は、この試合での強い打球は川上哲治のセカンドゴロのみであったと回想している[1]。日本列島にない球場、かつ日本プロ野球公式戦において、ノーヒットノーランを達成したのは、三輪八郎と、この19日後に同球場で達成した石田光彦 (阪急軍)の2人のみである。同1940年シーズンは、最終的に16勝5敗、防御率1.51、リーグ最高勝率.762を記録している。 1941年と1942年は幾分調子を落としたが、1943年には開幕投手に指名され、東西対抗出場も果たした。同年は11勝を挙げた(11敗)。しかし、戦局の悪化に伴い召集され退団。1944年、中国で戦死した。東京ドーム敷地内にある鎮魂の碑に、彼の名前が刻まれている。 選手としての特徴左腕から繰り出される力のある速球と、大きなドロップを武器にしていた[1]。特にその速球は一級品で、藤村富美男は後に、速球で勝負できた左腕投手は、三輪と江夏豊のみであると述べている[1]。 投手としての球種はドロップ、シュート。(山室寛之 著 「背番号なし 戦闘帽の野球」より) 詳細情報年度別投手成績
記録背番号
脚注関連項目外部リンク
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