三宝寺 (練馬区)
三宝寺(さんぼうじ、公式表記:三寳寺[2])は、東京都練馬区石神井台にある真言宗智山派の寺院である。山号は亀頂山(きちょうざん)。 概要石神井不動尊(しゃくじいふどうそん)とも呼ばれる。江戸期まで末寺を擁した本寺格だった。関東三十六不動霊場 第十一番札所でもある。お堂や歴史的建造物の数が多く、パワースポット、インスタスポットとしても知られている。 また細道を挟んで隣接する、石神井公園にある三宝寺池(さんぽうじいけ)の名称の由来になっている。同池にある現・厳島神社はかつて三宝寺配下の弁天社、池の古称も弁天池といい、三宝寺と縁があったことによる。明治期の神仏分離令で厳島神社となった。因みに三宝寺池から近くを流れる石神井川まで、かつて三宝寺川(古称・弁天川)が注いでいた。三宝寺池の湧水が枯渇するまで、同池は石神井川の主水源だった。 歴史応永元年(1394年) に鎌倉・大楽寺の幸尊法印(?-1398)によって開かれた。場所は現在石神井池の傍にある禅定院付近であったとされる。当初の本尊は勝軍地蔵であったとされ、当地を領する豊島氏の祈願寺として、石神井城とともに築かれたものと考えられている[注 1]。文明9年(1477年)の江古田・沼袋原の戦いで豊島泰経らは太田道灌に破れて滅び、太田道灌が当寺を石神井城趾の現在地に移したとされている。 その後も、天文16年(1547年)に後奈良天皇から勅願所の綸旨を受け、天正年間には後北条氏から禁制や寺領安堵を、天正19年(1591年)には徳川家康から10石の朱印地を受けるなど、広く尊崇を集めていた。江戸時代には無本寺・独礼の寺格で遇され、塔頭6寺院(教学院、禅定院、観蔵院、最勝寺、正覚院、薬王院)、末寺は50以上の大寺院であった。真言宗の教学上も関東十一談林のひとつに数えられていた。寛永2年(1625年)と正保元年(1644年)に徳川家光の鷹狩の休息所となったことから、山門を御成門と称することとなった。 明治維新後、神仏分離や寺領上地によって縮小を余儀なくされ、明治7年3月6日(1874年4月21日)には火災により堂宇を焼失、これによってほとんど荒廃してしまう。1919年(大正8年)になってようやく本堂再建の計画が立ったが、関東大震災や太平洋戦争の影響で工事は遅れ、本堂落慶は1953年(昭和28年)である。 境内
根本大塔一層目が方形、二層目が円形の、高さ17メートルの木造多宝塔である。開創600年記念事業として発願され、1996年(平成8年)落慶[4]。根本大塔とは「根本本尊大毘盧遮那如来法界体性塔」の略で、真言密教の教主である法身大日如来を象徴する塔のこと[5]。 平和大観音像高さ9mの十一面観音像。根本大塔と同じく開創600年記念事業として発願されたもの[5]。大晦日、初詣の時節などにライトアップされる。 大黒堂・地蔵堂大黒堂は第33世融憲法印が三宝寺復興を祈願して1929年(昭和4年)に創建し、古来より祀られてきた千体地蔵を合祀したもの[6]。現在の大黒堂は甲子にあたる1984年(昭和59年)に改築したもので、地下には独立した地蔵堂を設けている[7]。地蔵堂には地蔵仏と祭壇があり、その周りは無数の小さい木彫り地蔵像と、巨大な壁画「六道曼荼羅」(天国地獄絵図、染川英輔画伯作)が設置されている。 関連施設
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