三宅八幡宮
三宅八幡宮(みやけはちまんぐう)は、京都市左京区上高野三宅町にある神社。旧社格は村社。御利益は子供の守り神としてかんの虫封じ、夜泣き、安産、学業成就のほか、虫退治の神として害虫駆除にも効果があるとされ、別名「虫八幡」とも呼ばれる[1]。近年かんの虫退治の信仰の広がりを物語る大量の大絵馬が見つかり、民俗文化の貴重な資料として重要有形民俗文化財に指定されている。 本殿の南側の入口には神の使いとして狛犬ならぬ狛鳩が置いてあることでも知られ、境内には鳩が多く大切に扱われている。 歴史社伝によれば、推古天皇の時代に遣隋使として隋に赴こうとしていた小野妹子が、筑紫(九州の北部)で病気になった。しかし、近くにあった宇佐八幡宮に祈願するとたちまち病気が治って隋に渡り、無事帰国することができた。その後、聖徳太子の没後に報恩の意味を込めて自らの所領である山城国愛宕郡小野郷と呼ばれるこの地に、宇佐八幡宮を勧請して建立したのが当社であるとされている[2]。造営当初は伊太多神社(1915年(大正4年)に崇道神社に合祀され、現在は崇道神社の末社となっている)の境内にある末社の一つとして建てられ[2]、今の位置より南にあったとされる。 その後、この神社は愛宕郡岩倉の地に移り住んでいた、後鳥羽上皇の第四皇子頼仁親王の血を継ぐ南朝の忠臣・児島高徳(備後三郎三宅高徳)が八幡大神を尊崇したことから、いつしか三宅八幡宮と呼ばれるようになったという。なお、他にも三宅の名の由来は、大化の改新前の大和朝廷の直轄地である屯倉(みやけ)が置かれたからであるともされている[2]。 応仁の乱の戦災により全焼したが、数十年後に近隣住民の手で復旧された。 また皇室とのゆかりも深く、明治天皇が幼少のころに重い病を患った際には当社に祈祷が命じられている。その甲斐があり天皇の病が治ったといわれている[3] 。 三宅八幡社における神水の歴史明治期、こども癇封じの神として繁栄した結果、岩倉川流域にもかかわらず、対岸の高野川水系、比叡山山上近くの谷の湧水を神水として引水し、八瀬を経て社殿北の高位段丘面上に設置する貯留施設からサイフォンで落とし、社内の手水、庭園の池水噴水に至るまで涵養している。下鴨神社同様に、中生代付加体堆積物地域において、花崗岩質フルミネラル神水の飲料可能な稀有な神社として、京都屈指である[要出典]。 祭神
境内
文化財重要有形民俗文化財
京都市指定有形民俗文化財
周辺その他
脚注
参考文献
外部リンク |
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