一柳頼紹
一柳 頼紹(ひとつやなぎ よりつぐ)は、江戸時代後期・幕末期の大名。伊予小松藩の第8代藩主。 生涯文政5年(1822年)、小松藩主一族である旗本村越成芳(第5代藩主・一柳頼寿の六男)の二男として生まれ、叔父にあたる一柳寿重(頼寿の七男)の養子となった[2]。『平成新修旧華族家系大成』では一柳寿重の二男と記している[1]。 天保3年(1832年)8月21日、従兄に当たる先代藩主の頼親が死去したため、末期養子として家督を相続した。天保9年9月15日、将軍徳川家慶に御目見した。同年12月16日、従五位下・兵部少輔に叙任する。藩政では文教政策に尽くした。また、幕末の動乱の中で、頼紹は尊王派として三条実美や澤宣嘉らと親交を持った。 慶応3年(1867年)11月5日、病気を理由に上洛の延期を朝廷に申し出る。慶応4年1月15日、重臣近藤十左衛門を上洛させて、新政府支持の姿勢を示した。同年2月、病気を理由として藩主に代わり、嫡子頼明を上洛させた。藩論を尊王でまとめた頼紹は[1]、慶応4年(1868年)の戊辰戦争において新政府側に与し、藩兵を越後(北越戦争)や出羽山形方面に出動させた[2]。 明治2年(1869年)、戊辰戦争の功績として賞典金2000両を与えられる[1]。同年6月24日、版籍奉還により知藩事となるが、直後の7月14日に東京で死去した。享年48[2]。跡を頼明が継ぎ、知藩事となった。 家族・親族正室は、日向高鍋藩主秋月種任の娘・益子(天保2年(1831年)1月 - 明治10年(1877年)3月20日)[1]。なお、先代藩主頼親の正室照子は益子の叔母に当たる。 『平成新修旧華族家系大成』は、子として以下を載せる。
家督は頼明が継いだあと、紹念に譲られており、明治17年(1884年)の華族令施行に際して紹念が子爵に叙せられた。 長女の栄子は、同族の小野藩主家を継いだ一柳末徳(九鬼隆都五男)の正室となった。 参考文献
脚注外部リンク
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