ヴェルズ・パーネリ・ジョーンズ・レーシング
ヴェルズ・パーネリ・ジョーンズ・レーシング (Vel's Parnelli Jones Racing) は、かつて存在していたアメリカのレーシングチーム・F1コンストラクター。 概要1963年のインディ500勝者である元レーシングドライバーのパーネリ・ジョーンズと、フォードのカー・ディーラーである[1]ヴェルコ・ミレティッチ(Velco Miletich, 1925年 - 1998年[2])によって1969年に設立[3]された。本拠地はカリフォルニア州トランス[4][5]。1970年 - 1971年のインディ500でアル・アンサーが優勝、USACチャンピオンシップでジョー・レナードが1971年のチャンピオンとなっている[6][7]。 1972年はアンサーとレナード、新加入したマリオ・アンドレッティの3人体制となる[8]。スポンサーはタバコのブランドであるヴァイスロイがついた。この年マシンデザイナーとして加入した元ロータスのモーリス・フィリップがパーネリ初のオリジナルマシン、パーネリ・VPJ1を製作、インディ500でアンサーが2位となり、レナードがUSACチャンピオンシップで優勝3回を記録して前年に次ぐチャンピオンを獲得した[9]。 1974年はF5000にも参戦を開始し[10]、アンドレッティがシリーズ2位となった[11]。 1975年、コスワースDFVにターボチャージャーを搭載したDFXを開発した[12]。DFXは1977年から他チームにも供給が開始され、1988年にシボレー・エンジン搭載車が優勝するまで[13]、1978年[14]から1987年[15]に渡ってインディ500を制したエンジンとなった。 F1参戦1974年のカナダGPよりF1参戦を開始。スポンサーはインディカーやF5000同様ヴァイスロイが担当する。フィリップがデザインしたVPJ4はトーションバー・サスペンションやインボード・ディスクブレーキなどロータス・72に似ていたため、「4インチ低いロータス」との別名を持つ[1][16]。カナダGPでは7位で完走、アメリカGPでは予選1日目に最高位のタイムを記録、最終的に予選3位となった。 1975年は開幕から参戦。開幕戦のアルゼンチンGPではファイアストンのタイヤを使用していたが、ファイアストンがモータースポーツから手を引いたため[4]、次戦ブラジルGPからグッドイヤーに切り替える[17]。シーズン中にフィリップら主要スタッフがチームを離脱する事態に見舞われた[18]が、スペインGPの4位を最高として予選10位以内を4回記録、スペインGPではファステストラップを記録し、スウェーデンGPで4位、フランスGPで5位となった。しかし、ファイアストンの撤退とヴァイスロイがスポンサーを降りた影響で資金難に陥る。新しいスポンサー候補としてヒルトン・ホテルやロックウェル・インターナショナルと交渉するも契約には至らず[19]、翌1976年は開幕戦のブラジルGPを欠場。アンドレッティが南アフリカGPで6位に入賞したが、次戦アメリカ西GPを最後にF1から撤退した。 撤退後はインディカー・レースに専念。1975年途中からチームに加入したジョン・バーナードが手掛けたVPJ6B[5]でポコノ・ミルウォーキー・フェニックスの3戦を制した[5][20]。 インディカー・チャンピオン
インディ500優勝
F1での年度別成績(key) (斜体はファステストラップ)
F1非選手権(key)
脚注
関連項目
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