ディレクシブ
ディレクシブ(Direxiv)は、かつて存在した日本のレーシングチーム。 歴史急激な活動拡大モータースポーツへの参入当初より、下位カテゴリーでの活動実績無く国内最高峰カテゴリーであるフォーミュラ・ニッポンやSUPER GTなどのトップカテゴリーに参戦した他、ヨーロッパにおいてもF3選手権や、F1の直下カテゴリーにあたるGP2に既存チームのメインスポンサーとなり参戦(2006年にはDPRチームが「DPR DIREXIV」として参戦、ディレクシブ撤退後の2007年に元の"DPR"にチーム名が戻された)。日本国内での活動に関しては、チーム監督に元レースクイーンの芳賀美里を起用したことでも話題となった[1]。 F1参入計画ディレクシブは、モータースポーツ世界最高峰カテゴリであるF1へ進出する計画を持っていた。 元F1ドライバーのジャン・アレジやアレクサンダー・ヴルツ[2][3] にも接近。アレジをチームの「シニアエグゼクティブアドバイザー」として招聘、鈴鹿サーキットファン感謝デーにて自チームのフォーミュラ・ニッポンマシンに搭乗させデモランを行うなど目立つパフォーマンスを行った[4]。F1のトップチームであるマクラーレンに対するスポンサーや業務・技術提携を行う[5]と発表したが、実際にどのような技術が提供されたかは発表されないままであった。 またマクラーレンからシャーシを、メルセデスからエンジンの供給を受け、マクラーレンのセカンドチームとしてF1に参戦するのではないかと噂され[6]、F1参戦が実現すればドライバーはペドロ・デ・ラ・ロサ、ルイス・ハミルトン、ゲイリー・パフェットが候補であり、アレジがディレクター職に就任する[7][8]とされた。 2006年3月、GP2でメインスポンサーとなり提携関係にあったイギリスのデイビッド・プライス・レーシング (DPR) と共に2008年からのF1への新規エントリー申請を行った。しかし、同年4月の国際自動車連盟 (FIA) 発表にてプロドライブチームが新規参戦チームとして選出され、ディレクシブは落選した。この落選はディレクシブのレース活動の転機となった。 突然の活動停止2006年春のF1構想頓挫以後、同年8月1日にそれまで未発表であった親会社が「アキヤマホールディングス」であることを公表。同社が事業方針を転換したことを理由にSUPER GT以外の全てのレース活動からの即時撤退を表明するなどレース活動が収束に向かう[9]。 「アキヤマホールディングス」は、北海道の医薬品卸・秋山愛生舘(1998年にスズケンに合併)の創業者一族である秋山新が、持株を売却した資金を元に設立した投資会社で、当時F1のスーパーアグリF1チームの設立などにも関与していた[10]。 直後の8月9日には「アキヤマホールディングス」からの資金供給が途絶えたことを理由にモータースポーツからの完全撤退が発表され、8月20日に行われたSUPER GT第6戦(鈴鹿1000km)を最後にシーズン途中でのチーム撤退となった。 参戦していたSUPER GT(GT300クラス)については、撤退時点で谷口信輝/密山祥吾組がランキングトップであったこと、参加車両減を憂いた周囲の計らいにより実車のメンテナンスを担当していたR&D SPORTが丸ごとチーム運営を引き継ぎ、鈴木利男を新監督に迎え、2006年シーズンの残りレースを戦った(ランキングは3位で終了)。またフォーミュラ・ニッポンは、元ラレス代表取締役張勤尚が代表取締役を勤めていたEMSマネージメント(2006年5月19日設立)がチーム運営を引き継ぐ形で最終戦まで参戦した(体制変更によりドライバーは密山祥吾から平中克幸に交代された)。 ディレクシブの公式ウェブサイトは同年8月9日の撤退発表を最後に更新を停止し、芳賀のブログは過去分を含む全記事が削除された。翌2007年シーズンに向けたチームの動向や、芳賀の進退などについての新たな発表のないまま、2007年1月に公式ウェブサイトも閉鎖し、チームは消滅した。2007年4月30日株主総会で解散が議決された。 その後芳賀は翌2007年のSUPER GT第3戦より"楽天BOMEX 320R"の「監督」としてレース界に復帰。2008年のSUPER GTでは参戦する"MOLA レオパレス Z"の「監督」となった。同チームは2008年のSUPER GTにおけるGT300クラスのドライバーズタイトルとチームタイトルを獲得し、芳賀個人としてはシーズン途中までランキングトップでありながらチーム消滅となった2年前のリベンジを果たす形となった。 また、2021年のSUPER GTでは"Yogibo NSX GT3"の「監督」として13年ぶりにレース界に関わることとなった[11]。 沿革関連項目同チームに所属していたドライバー
それ以外の契約ドライバー
レースクイーン
シニアエクゼクティブアドバイザー参照
外部リンク
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